道の話題47「平野弥十郎~北海道の道路づくりの先駆者」

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 明治の文明開化というと、鹿鳴館に象徴されるように、羽織袴に丁髷(ちょんまげ)から洋服へと劇的に変化したシーンが思い浮かびますが、当時の東京の人々を最も驚かせたのは恐らく蒸気機関車の登場でしょう。
 しかしここ北海道について言えば、文明開化は鉄道よりも道路から始まった、と言えるかもしれません。
 それは、どういうことでしょうか?
 開拓使は開拓使顧問の米国人技術者ケプロンの指導により、明治6(1873)年に1年余りの工事を経て、札幌と函館を繋ぐ「札幌本道」を開通させましたが、これは日本初の本格的な西洋式馬車道という画期的なものでした。約8間(14.5m)という広い道幅で馬車の通行に耐える砕石の舗装「マカダム式」が施された札幌本道は、当時の世界最先端の道路技術が注入されたもので、いわば、アイヌの草分け道や徳川幕府の役人が通るための歩道しかなかった北海道に西 欧文明の光を輝かせたのです。
 この道路の工事現場を米国人技術者のもと、見事に取り仕切ってみせたのが、今回取り上げる平野弥十郎でした。
 では、平野弥十郎とはどんな人物だったのでしょうか?
 江戸時代末期に江戸浅草の雪駄(せった)仲買商の家に生まれた弥十郎は、商才にたけていたものの不景気には勝てず、店をたたみ、薩摩藩に出入りするようになります。勝海舟から洋式砲台の技術を学び、神奈川台場の工事を成功させたのを皮切りに、薩摩藩の土工請負人としての実績を積み重ね、日本初の鉄道建設で線路敷設のための土台「軌道敷」の工事を任されます。そして、その成功を買われ、北海道開拓使から「開拓使御用掛」を拝命。請負人という一介の民間人としてではなく、政府の官吏として札幌本道の建設を指揮するという大きな仕事を任され、歴史に残る大事業を成し遂げたのです。

 さて、(一社)北海道開発技術センターの原口征人氏によると、平野弥十郎は明治中頃の開拓使廃止後、当時の札幌県で道路の新設事業をいくつかを担当したとのこと。次に、その一つ「厚別新道」についてご紹介します。
 厚別新道は、開拓使が当時の多くの建築物の屋根に使われた「長柾(ながまさ)」を製材するために札幌郊外の滝野に設置した「厚別水車機械場」(明治13(1880)年完成)と札幌中心部とを結ぶ道路でした。*注)この機械場で作られた屋根材は、この新道を通って札幌の町に運ばれたのです。例えば、明治天皇の北海道行幸の際の行在所となった「豊平館」はその代表例で、現在も重要文化財として保存され、結婚式場として活用されています。
 ちなみに、札幌の観光名所の時計台は、元は札幌農学校(現・北海道大学)の演舞場だったのですが、あとから鐘楼に時計を取り付けようと米国から取り寄せたところ、大き過ぎて収まらず、やむなく鐘楼を大規模に改修して現在の姿になったとのことです。記録を調べたわけではありませんが、明治14(1881)年の完成なので、ここにも厚別機械場の長柾が使われていたのかもしれません。
 残念ながら、この国営の製材所は開拓使の廃止後、明治19(1886)年には、その短い務めを終えることになりました。
 余談ですが、それからほぼ1世紀を経た1979年、この滝野で、今度は国営の公園事業として滝野すずらん丘陵公園の建設がスタートしました。
 実は私事ですが、かつて製材所が建っていた正にその直近に公園工事の現場詰所が建てられ、私も新人職員としてそこで働いていていました。
 とうの昔にこの現場詰所は撤去され、公園は完成しましたが、公園を訪れる度に、若かりし日の思い出が頭をよぎります。

*注)最初の道は明治13年開削「厚別山路(器械所通)」ですが、市内に至るのに遠回りするため、平野弥十郎によって現在の天神山付近に直結する「厚別新道・器械場道路」が明治15年開削されました。

(参考文献)
『平野弥十郎幕末・維新日記』 / 平野弥十郎 [著] ; 桑原真人, 田中彰編著、北海道大学図書刊行会、2000.2
『北海道道路史ーⅢ 路線史編ー』 4本府への道;青山英幸筆、道路調査会編、1990.6
明治13年厚別水車器械所と「器械所通」/ あしりべつ郷土館公式ホームページ

2025年1月第2号No.160
(文責:小町谷信彦)