「津波てんでんこ」と避難路
今年もまた、ショッキングな映像とともに日本中を震撼させた3.11が近づいてきました。被災されたご親族、関係者の方々のことを想うと胸が痛みます。
記憶にある方も多いと思いますが、当時、「津波てんでんこ」という言葉がにわかに注目を集めました。
歴史的に繰り返し津波を経験した三陸地方の言い伝え「津波が起きたら命てんでんこだ」から取られた標語で、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、各自てんでんばらばらに高台に逃げろ」という意味です。
地震発生から津波が来るまでは、ごくわずかな時間しかなく、そこで即座に避難した人だけが助かったという過去の貴重な教訓から語り継がれてきたようです。
この標語は、「人を置き去りにしてでも自分だけ逃げよう」ということではなく、「事前に家族や関係者が非常時の互いの行動を話し合い、避難場所などを決めておくことで逃げ遅れるのを防ごう」という防災の心得を普及させるためのものだったと言います。
しかし、提唱者の思いとは裏腹に、自分だけが助かればいいと利己主義的に誤解されるケースも多いようで、本来の趣旨が十分伝わっていないのは残念なことです。
さて、非常時にパニックに陥らないためには、日頃からのミュレーションなどの心の準備が重要です。災害グッズなどの備えもさることながら、個人の守備範囲を越えた社会的な課題もあります。その一つが避難路の整備です。
2020年2月に北海道では、泊原発の重大事故を想定した原子力防災訓練が多数の周辺住民の参加により実施されました。厳寒期の過酷な環境下で安全な避難のための予行演習ともなるものでしたが、避難路となる国道(276号岩内共和道路)や代替の道道などは、多数の住民が短時間に集中的に避難できるよう、その整備が進められています。
全国的にもこのような非常時の避難道路や物資の緊急輸送に使われる幹線道路や電線切断による交通障害やブラックアウトを回避できる電線地中化が重点的に進められています。
この避難路ですが、古代の中東地域においても大事な道路として整備されていたことをご存知の方はあまり多くないかもしれません。
実はこの避難路、災害避難用ではなく、現代人には思いもよらない目的で造られました。
モーセ(紀元前1593~1473年)の時代のイスラエルでは、「命には命」という律法が適用されていて、殺人を犯した者を殺された人の家族が復讐として自らの手で死刑に処しても良いとされていました。人の命はかけがえのないもので、命には命で償わなければならないという原則に基づくものでした。但し、「斧で木を切ろうと手を上げたところ、刃が柄から外れて仲間に当たり、死んでしまった場合」(旧約聖書 申命記)というような意図しない過失による殺人は、「避難都市」に逃げ込み、裁判でその潔白が認められれば、復讐を免れて保護されるという救済措置がありました。
この避難都市は、意図せぬ殺人者が国内のどこからでも逃げ込めるように、現在のイスラエルとヨルダンのエリアに6か所(ゴラン、ヘブロンなど)分散して配置されていましたが、そこに通じる道路は良く目立つように整備され、避難しやすいように障害物は取り除かれていました(旧約聖書 ヨシュア記、申命記)。
そして、交差点には方向を示す道標まで付いていたと言いますから、死に物狂いで慌てふためいて逃げてきた殺人者が道を間違え、復讐者に追いつかれて命を落とさないようにとの配慮、何ともご親切なことです。
時代と場所が変われば色々な避難路があるものですが、「命を繋ぐ道」という目的は共通。
これこそ文字通りの「ライフライン」と言えそうです。
(文責:小町谷信彦)
2020年3月第1号 No.71号