道の話題37「お伊勢参りと日本の近代化~街道がもたらした副産物」

 聖地巡礼というと若い方々は、アニメの聖地巡礼を連想するかもしれませんが、江戸時代の聖地巡礼、「お伊勢参り」(伊勢神宮への参詣)は国民的一大行事でした。
 とりわけ、およそ60年周期の「おかげ年」(神様からのおかげ(恩恵)をもらう年)の「お陰参り」には全国から集団で参詣しました。その数、最大とされる明和8(1771)年の「お陰参り」では460万人、何と当時の日本の人口の6人に1人というのですから、大変なものでした。
 なぜこれほど人が集まったかと言うと、庶民の移動が厳しく制限されていた江戸時代に伊勢神宮参詣に関してだけはお守りやお札を行った証拠として持ち帰ればお咎めなしで、また、相当な負担だった旅行費用を村ぐるみで積み立てる「お伊勢講」という仕組みが村毎に作られ、くじで選ばれた人が代表で送り出されたのです。その上、「お陰参り」の時だけは、奉公人が主人に無断で参詣したり、子供が親に黙って参詣することが許され、特別な信心の旅ということで沿道の施しも受けられたということです。
 そして、江戸時代中頃の農業技術の進歩で農家の現金収入が増え、少し経済的に余裕が生まれたという経済的な状況や伊勢神宮の国家祭祀の斎場としての位置づけが近世に強化され参宮が半ば国民的義務とされたという時代背景も影響したのでしょう。
 この全国津々浦々から伊勢神宮への大旅行を支えたのは諸国の街道でした。江戸からでも片道15日間、最も遠い陸奥国釜石(岩手県)からは100日もかかったと言う長い道程は整った街道なくしては歩けなかったことでしょう。

 さて、お伊勢参りで使われた街道の多くは江戸時代の初期に整備されたものでしたが、どういう目的で造られたかご存知でしょうか?
 答えは参勤交代です。徳川幕府は徳川将軍家による中央集権を維持するために全国諸藩の大名を1年おきに江戸に住まわせて監視下に置くとともに、江戸と藩との往来や二重生活に要する莫大な経済的負担により藩財政を消耗させる狙いで、この妙案を捻出しました。
 五街道を始めとした諸街道はそのために造られたのです。とりわけ東海道は参勤交代のメインルートとして146藩が通ったと言われ、奥州街道が37藩、中山道30藩と続きます。
 参勤交代の功罪は様々ですが、プラスの影響としては、街道沿いに宿場町が栄え、江戸も人口増で賑わったほか、江戸の文化が全国に広まり、逆に地方の言葉や文化・風俗などが江戸に入り、相互に影響を及ぼしたとも指摘されています。

江戸五街道 (出典:Wikipedia;「五街道」Artanisen)

 ちなみに、伊勢神宮参詣に関しても、全国から伊勢に集まった最新情報が地方に拡散しただけではなく、ついでに立ち寄ることができた京や大阪などで楽しんだ文化・芸能や様々な知識・技術が土産物と一緒に地方に伝わりました。(例えば、新しい品種の農作物や農具、最新の織物の柄など)

 道は、場所と場所を繋ぎ、それぞれの文化を繋ぎます。
 参勤交代のために江戸と各地を繋いだ江戸時代の街道は、お伊勢参りの交通路としても活用され、江戸や伊勢の文化や技術、情報を全国に広げる一端を担いました。
 日本の明治の近代化の成功の要因として、しばしば当時世界トップレベルだった庶民の識字率・教育水準が挙げられますが、「お伊勢参り」という地域や階層を超えた国民的行事が、近世幕藩体制という狭い枠を超えた「日本人」や「日本」という民族意識・国家意識の醸成に繋がったという説を唱える研究者たちもいます。
 江戸の街道がもたらした副産物を振り返ると、道が繋がることによる影響は私達の想定を超えて広がることもあり得ると気づかされます。
その可能性は「神のみぞ知る」ということを知る必要があるのかもしれません。

2022年12月第1号 No.132号
(文責:小町谷信彦)