道の話題 17「駅逓所とクラーク博士。そして榎本公園と榎本武揚」

駅逓所とクラーク博士。そして榎本公園と榎本武揚

「駅逓所(えきていじょ、えきていしょ)」という言葉をご存知でしょうか?
小学校の副読本などで紹介されている地域もありますが、それでもなかなか馴染みのない言葉。この「逓」という難しい漢字の意味を辞書で調べると、「宿場」とか「物を伝え送る」とあります。
「駅逓所」も「逓」の字義通り、宿場のようなもので、宿泊、人馬の中継ぎ、郵便配送の役割を果たしましたが、北海道に特有のものでした。
では、江戸時代の街道で発達した宿場との違いは何かと言うと、人口が希薄で交通の不便な北海道では民間の宿場が成立しえなかったので、江戸幕府、そして明治政府が設置したいわば官設の宿場が「駅逓所」なのです。
この駅逓所は、その前身が江戸時代末期に作られますが、明治に入り駅逓制度が確立されました。そして、明治15年の開拓使廃止時に道内112か所だった駅逓所は、北海道開拓の進展に伴いピーク時には約六百数十か所を数えますが、時代と共に徐々に役割を終え、戦後の昭和22年には制度自体が廃止されました。

さて、草野作工の本拠地、江別にも明治12年に駅逓所が設けられました。
江別の歴史は、江戸時代に石狩川左岸の津石狩(現在の対雁(ついしかり))に番屋が設けられたのを機に始まります。サケ漁と内陸水路交通の要所として発展し、明治初期には、学校や製鋼所が作られ、対雁地区は役場も立地する町の中心としてとても賑わっていたようです。
しかし、明治15年の鉄道開業により人の流れが現在の江別駅、野幌駅周辺に移り、明治18年には駅逓所は廃止され、コレラの流行による大惨事が追い打ちをかけ、対雁地区は衰退の一途をたどったのです。
かつての繁栄も今は昔、「榎本公園」の人影少ない園内の片隅に「江別発祥の地の碑」が寂しく立っていますが、その横に置かれた「史跡 津石狩(対雁)番屋」の解説板の説明から当時の様子を想像するしかありません。

榎本公園の「江別発祥の地の碑」

ところで、榎本公園の名前の由来はと言うと、戊辰・函館戦争の立役者、榎本武揚が明治6年に開拓使から払い下げを受けた10万坪の土地を「榎本農場」としたのがこの地だったとのこと。まだ、駅逓が設けられる前の話ですから、明治政府は、この歴史に残る大物に将来発展が見込まれる一等地として払い下げたのでしょう。

半世紀以上前に駅逓所はすべて廃止されましたが、現在も建物が保存されている札幌近郊の旧島松駅逓所は有名です。
なぜ有名かと言うと、ご想像のとおり札幌農学校(現在の北海道大学)の初代教頭クラーク博士が日本から米国に帰国する際にこの駅逓所で「青年よ、大志を抱け(Boys,be ambitious.)」という言葉を残して、さっそうと馬に乗って去ったとされているからなのです。
鉄道駅でのドラマティックな別れのシーンは映画の定番ですが、当時は駅逓所が旅立ちと別れの舞台だったのですね。この話を読んで、羊ケ丘展望台の右手を挙げたクラーク像や北海道大学構内のクラーク像に刻まれた“Boys,be ambitious.”をご覧になって誤解されていた方がおられたら、どうか騙されたとは思わないでください。

さて、この名言に続けて「この老人(=私)にように(”like this old man”)」という一節が付加された文書があり、クラーク博士自身「大志の人」だったようですが、日本での活躍とは裏腹に悲惨だったその後の人生についてはあまり知られていません。
帰国後、まず取り組んだ洋上大学の企画は失敗に終わり、その後、知人と設立した鉱山会社は当初こそ大きな利益を上げたものの知人に横領を繰り返された挙句に逃亡、会社は破産。
そして、破産を巡るトラブルで訴えられ裁判に悩まされた上、心臓病を患い、59歳で失意のうちに生涯を終えるという波乱万丈の晩年だったとのことです。
この後日談は、「大志を抱く」少年たちには知られない方が良い話かもしれませんね。

旧島松駅逓所(北広島市;国指定史跡)

北広島市のカントリーサインはクラーク博士のイラスト

道内には史跡・文化財などとして保存されている駅逓所があちらこちらにあり、それぞれにその歴史の中で刻まれた物語があると思いますので、「北海道の歴史をたどる駅逓所巡り」というのも面白いかもしれません。

(文責:小町谷信彦)
2019年6月第1号 No.60