道の話題39「パークレットと大阪・御堂筋の話」

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 近年、街路空間を車中心から”人中心”の空間に再構築し、沿道と路上を一体的に使って、人々が集い憩う、賑わいの場に変換していく取組が、欧米の諸都市で進んでいます。
 日本でも、令和2年に取りまとめられた道路政策ビジョンで、道路政策の原点は「人々の幸せの実現」と明記され、また、令和3年に閣議決定された第5次社会整備重点計画には「人を中心に据えたインフラ空間の見直し」の項目が加えられるなど、街路を”人中心”の空間へと再構築する取組が始まりました。

 今回のテーマのパークレット(Parklet)は、ご存じない方も多いかもしれませんが、道路空間に歩行者が滞在し、交流する機能を加える手法の一つで、2010年に米国・サンフランシスコで始まりました。具体的には、歩道と車道の間にある駐車スペースにベンチやカウンター等を設置して、休憩や飲食を楽しめるようにしたコーナーで、今では米国各地60か所以上に広がっているとのこと。その多くはレストランやカフェの前に設けられているようですが、誰でも自由に利用できる公共施設です。
 日本では、横浜・元町商店街や神戸・三宮中央通りなどで常設されたほか、社会実験が、東京・渋谷の宮益坂や名古屋の栄ミナミ地区、仙台の定禅寺地区などで実施され、全国各地で検討が進められています。

横浜・元町のパークレット(出典:国土交通省 ウォーカブルポータルサイト)

 中でも注目したいのは大阪の御堂筋で、令和19年の御堂筋完成100周年をターゲットイヤーとして、人中心のストリートの世界最新モデルを建設するビジョンが策定され、パークレットを手始めに、この壮大なプロジェクトが動き始めていますのでご紹介します。
 

御堂筋のパークレット(出典:国土交通省 ウォーカブルポータルサイト)

 御堂筋と言うと、我々道産子には馴染みがありませんが、大阪の中心市街地でその発祥にも興味深いものがあります。
 時は1923(大正12)年、大阪市長に就任した関一(せきはじめ)は、当時、道幅6m、延長1.3㎞(淡路町~長堀間)の短い街路に過ぎなかった御堂筋を8倍の幅44m、延長を4㎞に大幅に拡張する都市大改造計画を打ち出しました。何せまだ車の交通量もそれほど多くない時代ですから、大阪の人達からは「市長は船場の真ん中に飛行場でも創る気か」という声も上がったと言います。
 その上、このプロジェクトは、道路の下に地下鉄も同時に建設するという百年先を見据えた壮大なものでした。しかし、折悪く、同年、関東大震災が勃発し、国の予算からの支援は厳しい状況で、「受益者負担制度」にその活路を見出した関市長は、猛反発する住民を辛抱強く説得し、1926(大正15)年に着工に至ります。さらに1929(昭和4)年の世界恐慌といった逆風下、しかもトンネルマシーンもなかった当時、軟弱地盤での地下鉄工事は困難を極めたようですが、何とか11年の歳月の末、1937(昭和12)年の完成を見たのです。
 余談ですが、関市長はこのほかに、大阪港の建設、市営バス事業の開始、大阪駅前の区画整理事業など、さまざまな都市政策を成功に導き、大阪市は当時の東京を凌ぐ、世界第6の人口を擁する都市として大大阪時代の興隆を迎えたのです。
 欧州留学の成果が遺憾なく発揮された関市長の手腕は、百人一首の蝉丸の句(注1)をもじって「これやこの都市計画の権威者は知るも知らぬも大阪の関」と謳われたとのことです。
 そして御堂筋の完成から90年近い歳月を経て、御堂筋は新しい時代に相応しい大阪の中心市街地に生まれ変わろうとしています。現代版・関プロジェクトで”フルモール化”(車道の全面歩行者空間化)に向けての取組がスタートしたのです。
 大阪市は、メガリージョンとしての関西都市圏の発展を念頭において、御堂筋周辺を国内外から人・モノ・資金・企業・情報が集中する圏域のエンジンとしての役割を担う中心地区と位置付け、国際都市に相応しい新たな魅力や価値の創出を図ろうとしています。
 この夢のような計画が今後どう進展していくのか、期待とともに見守っていきたいと思います。

御堂筋のフルモール化 完成予想図(出典:国土交通省 ウォーカブルポータルサイト)

(注1)蝉丸「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関」

(参考情報)国土交通省ウォーカブルポータルサイト: パークレット等の道路空間の歩行者空間化の手法、各地の事例など
https://www.mlit.go.jp/toshi/walkable/

令和6年1月第1号(No.139)
(文責:小町谷信彦)