土木の話題 12「排水道路と排水運河」

排水道路と排水運河

NHKの朝ドラでマッサン(2014年~)をご覧になっていた方は、何故、北海道に縁もゆかりもなかったニッカ創業者竹鶴政孝が、ウイスキー工場を余市に造ったかはよくご存じでしょう。
その理由は、モルトウイスキーのフレーバーとして必須のピート(泥炭)が豊富な日本有数の土地だからでした。この泥炭は、冷涼な気候の沼地で植物の分解が進まず堆積して形成される土壌で、ウイスキー生産にとっては宝の山とも言えるのです。しかし、私達の暮らしにとっては、相当に厄介な代物なのです。水を含んだ半分泥のようなものですから乾燥させなければ、家は建てられず、道路も造れないからです。

明治初期に始まった北海道の開発は、人が住める土地を確保し、定住のための基盤を整備することがその第1歩でしたが、特に道央圏では氾濫を繰り返していた石狩川の治水とその流域に広がる泥炭地の排水が避けては通れない大命題でした。
この排水事業は、まず明治19年に江別発祥の地、対雁(ついしかり)で始まりましたが、排水という役割だけではなく、実に一石三鳥の効果を生み出す事業でした。
それが今回の主題である「排水道路」と「排水運河」です。
その端緒となったのは、明治18年の金子堅太郎による北海道三県の巡視で、その復命として政府に提出された建白書にある「湿原地の拓地殖民を行うには、排水の土工をして、その掘り上げた泥土は道路開発に用い、その排水の跡は運河に利用し、谷地は変じて肥沃な耕地となる。」という建議を受けて、運河を兼ねた排水路と道路を同時に造るという画期的な事業が始まったのでした。
その立役者、金子堅太郎は、当時は元老院大書記官で、その後、初代総理大臣伊藤博文に引き上げられて司法大臣や農省務大臣等を歴任するのですが、この建白書で、網走集治監(現在の網走刑務所)の囚人を道路建設に当たらせるよう提言し、北海道の近代道路史に暗い影を落とした人物でもありますので、この建白書は功罪半ばと言えるかもしれません。

さて、「排水道路」は、実際どのように造られたのでしょうか?
道路予定線の両側に排水路を堀って水はけを良くし、外側に掘った排水路を利用して小舟で丸太や砂利を運び、道路の土台として丸太を並べ、その上に掘削土と砂利を敷く。この丸太並べと土及び砂利の敷き均しの繰り返しだったようです。

「排水運河」の方はと言いますと、北海道の開発が始まった初期段階においては、道路の整備は遅れていたことから、生活を支える物資の運搬は舟運が中心で、排水運河は大きな役割を果たしました。
代表的な排水運河としては、明治27~30年にかけて施工された馬追運河(延長14,450m)、幌向運河(延長7,700m)、茨戸~銭函運河排水(延長14,500m)、札幌~茨戸排水(延長10,500m)などが挙げられますが、これらの運河が地域開発の大きな原動力となったことに疑いの余地はありません。

ところで、札幌農学校の第1期生で、生涯北海道の農業開発に尽力した内田瀞(うちだきよし)が、若き日に北海道庁技師として植民地選定のために馬追山(長沼町)から未開の馬追原野を眺望して、「排水事業を施すことによって他日、必ずや北海道の穀倉たらん。」と述べましたが、その原野は、今やその予言通りに豊かな恵みの大地に変貌しました。

長沼町市街地近くの運河沿いに地元有志によって建てられた「馬追運河の碑」は、その運河の功績を静かに物語っています。

 

馬追運河の現況

(文責:小町谷信彦)
2019年12月第1号 No.66号