技術と技能
幕末期に米国とほぼ同規模と推測された日本のGDPが、太平洋戦争が始まる頃には十倍にも差が開いてしまった理由を哲学者の内山節氏がとても興味深く論考しています。
簡単に要約すると、江戸時代までは、GDPを生み出す原動力となった我が国の技術は、日本人が得意とする技能(職人技)に基づいたものであり、暮らしの技術や共同体を安定させるための技術が中心だった。ところが、明治維新以降になると、殖産興業、富国強兵など、経済や政治という考えのもと、生産力向上のための技術に変わっていった。しかし、欧米流の技能を排除した機械技術による近代化は、日本の文化的土台とは調和せず、欧米ほどの目覚ましい成果が得られなかった、というのです。なんとなく理解できますね。
さて、「技術と技能」というタイトルから、昨今、我々の業界で大きな問題となっている建設現場における技能者不足の話を思い浮かべた方も多いかと思いますが、冒頭に日米の歴史的な比較を切り出したのは、どうも技術と技能の問題は我々のDNAに組み込まれた文化的伝統という要素、土壌も考慮に入れる必要があるのでは?と考えるからです。
本来、技術は技能と一体不可分でした。ところが、近代化の過程において人間の技である技能が機械に置き換えられ、大量生産による生産性向上という大目的が達成されましたが、ここで技術と技能が別々になってしまったのでしょう。
そして時代は現代、益々、機械化が進み、経済のグローバル化も相まって、安くてもそれなりの品質という合理的な大量生産・流通システムが開発されファストファッション、百均がスーパーの一角を占める時代に。経済性や現実を考えると仕方がないのでしょうが、少し行き過ぎの気もします。他方、消費のニーズの多様化、少量多品種の流れも着実に進み、今や十人十色ならぬ一人十色とも言われる時代を迎え、どうせ買うなら高価でも質の高い物、自分に合ったこだわりの一品という価値観も一部で定着しつつあります。
話を戻しましょう。日本人は、古来、ものづくりにおいて匠(たくみ)の技を発揮してきました。職人気質の細部へのこだわりは、欧米にはない緻密で繊細な我が国の文化を形成する源になった人種的DNAなのかもしれません。
内山節氏は、日本人が得意とする共同体を安定させるために技術で昔の人々が開発したものとして、用水路の開削や洪水から村を守る治水技術などを挙げています。まさしく、土木の世界です。そして、これからは生活重視、暮らし技術の時代。
希望的妄想と言われそうですが、ものづくりの喜びを楽しみ、仕上がりの美しさにこだわる職人芸、これこそが「ものづくり大国日本」の真骨頂であり、様々な面で目が肥え成熟した多くの市民が出現した現代、土木の世界も遅ればせながら「土木文化」の開花を見る日は近いかもしれません。
(文責:小町谷信彦)
2018年8月第1号 No.34