土木の話題36「土地改良の要「土管暗渠」の始まり~知られざる江別の貢献

(出典:ウィキペディア)

 これは何の絵かおわかりでしょうか?
 巨大な温室のようにも見えますが、馬に跨ったシルクハットの紳士や中世風の衣装をまとったご婦人方の様子から、時代はかなり昔のようです。
 答えは、1851年に世界で初めて開催されたロンドン万国博覧会の会場風景でした。
 中心にあるガラスの建物が博水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれるメイン会場で、当時は非常に珍しかったガラスを全面に使った斬新な構造と幅約563m、奥行き約138mという圧倒的なスケールの建物に訪れた人々は驚嘆しました。
 そして、5月から10月までの会期中に世界から800万人もの人が集まり、団体旅行の創始者トーマス・クックはこのイベントのツアーでの成功を踏み台にして世界最古の旅行社を創設しました。また同年に英仏海峡に敷設された海底電信ケーブルを利用して、P・J・ロイターがパリの相場やロンドンの金融情報を配信するロイター通信を創業するなど、1851年は、様々な社会的変化を引き起こした画期的な年になりました。
しかし、この大英帝国の繁栄を象徴する国家的大事業の最大の成果は、産業革命を完成させたイギリスの技術と経済力を世界に誇示した点にあり、1 9世紀の一大イベントとして歴史にその名を刻まれました。

さて、このイベントは、あまり注目されませんが、農業土木史においても特筆すべきものでした。農業の暗渠排水には不可欠の土管が展示され、世界に知られる契機になったのです。
では当時の日本はというと、江戸時代の末期、農地には既に暗渠排水は使われていましたが、竹や砕石のもので、瓦や瓶、下水道の管が作られていた常滑(愛知県)などの焼物の産地でも暗渠用の素焼土管は作られていなかったようです。
余談ですが、前述のトーマス・クック、後に「近代ツーリズムの祖」と称されるのですが、自らも世界一周の船旅に出立し、日本にも訪れたとのこと。その際に孫へのお土産として購入したのが人力車だったという面白いエピソードが残っています。持ち帰るのはさぞかし大変だったことでしょう!
 
 閑話休題、土管の話に戻りますが、農業近代化の始まりともされる土管暗渠がわが国に最初に導入されたのは北海道でした。1897(明治12)年に札幌農学校(現・北海道大学)のウィリアム・ブルックスによって土管製造機が輸入され、現在の北大農場で施工されました。
そして、翌1898(明治13)年には江別村(現・江別市)の屯田兵のモデル地区のような農地に敷設され、実用に供されたことが記録されています。
 ちなみに、当時の開拓使長官・黒田清隆から開拓農地の作物作りについて相談された札幌農学校のクラークとエドウィン・ダンは、「①プラウ(牛に引かせるスキ)をかけろ、②転作をしろ、③瓦管(土管)を埋めろ」と回答したと言われ、この頃から暗渠排水の重要性が指摘されていたことがわかります。
ところで、ダンは江別で敷設した土管の状況がよほど気になったとみえて、しばしば江別に来ていたようで“西洋屯田“という異名が付いたという話まであるそうです。
 当初、江別で使われた土管は、江別でのレンガの生産の始まりが1890(明治23)年頃なので、札幌農学校から運ばれたと推測されますが、江別は暗渠を必要とする泥炭土壌で、土管が生産できる粘土も有するという最適な条件を兼ね備えていることから、昭和に入ってからレンガとともにその生産が本格化しました。

 江別のレンガは、”赤レンガ”として知られる旧北海道庁やサッポロビール園として賑わう”札幌ビールファクトリー”で有名ですが、農業用暗渠に使われる素焼土管もレンガと並ぶ江別の知られざる主要産品だったのです。
 北海道の開拓、とりわけ石狩・空知の農地開発は、水害との闘いと泥炭土壌の克服の歴史と言えますが、土地改良の要となったのは「土管暗渠」でした。そして、その土管の一大生産地として農地の基盤づくりを支えたのが江別と言えます。
 地下に埋もれその働きが見えない土管と同様に、江別の果たした役割も今となっては遠い昔、遥か彼方に記憶は飛び去りつつあるのかもしれません。
 そういう意味では、旧肥田製陶・ヒダ工場を保存・活用して複合商業施設として再生したEBRI(エブリ)は、かつての窯業全盛の時代の町の記憶を留める数少ない市民遺産として、大事に残していきたいものですね!

(参考文献)「土管暗渠と江別~土地改良の源流を探る~」奈良幸則(えべつの歴史 第16号 2014・3) 
      「江別市史 下巻」江別市

2022年10月第2号 No.129号
(文責:小町谷信彦)