土木の話題 10「下水道の歴史 ~メソポタミア、インダスとナイルの違い~」

下水道の歴史 ~メソポタミア、インダスとナイルの違い~

 日本のトイレ事情を振り返ると、私の幼少期は汲み取り式だったのが、あっと言う間に水洗が普及し、今やシャワートイレが当たり前という現代。この半世紀で日本もずいぶん変わったものだという感慨を持たれる旧世代の方は少なくないでしょう。

 さて、この水洗トイレに不可欠なのが下水道という文明の利器。最古のものは紀元前5000年頃のメソポタミア文明で繁栄した都市のウルやバビロンにまで遡るというのは驚きです。
 そして、インダス文明のモヘンジョ・ダロ(推定 B.C.3300~2700年)でも下水渠と最古の下水処理設備とされる沈殿池が発掘されたとのこと。では、4大文明の他の二つ、ナイルと黄河には何故下水道がなかったのか?という疑問が生じますが、この点は後で触れましょう。

 時代は流れ古代ローマ帝国では、最初の下水道”クロアカ・マキシマ(ラテン語で「大きな排水渠」)“の建設が紀元前615年に始まりますが、その目的は、湿地帯だったローマの排水のためでした。その後、ローマでは、映画”テルマエ・ロマエ“で描かれたように公衆浴場でのコミュニケーションや娯楽が市民の重要な生活文化として定着し、紀元1世紀には多数の公衆浴場が造られました。そして、下水道はその排水のために使われ、公衆便所や様々な公共建築物とも接続していました。
 おそらく、当時のローマは公衆衛生の行き届いた清潔な街を連想される方が多いと思いますが、その下水道網は市街地の一部に限られ、貧富を問わず住居のほとんどは下水道とは無縁。アパート上層階の住民による糞尿やゴミの道路へのポイ捨ては日常茶飯事で、清掃サービスも皆無ときていますから、かなり不潔な街だったようです。
 また、公衆浴場の清掃も不十分な上、当時の医師が風呂での療養を処方したこともあり、公衆浴場は病人が持ち込んだ病原菌の繁殖地となり、病気の蔓延を促したとも言われていますので、無知とは恐ろしいものです。

 私達は普通、下水道を公衆衛生のためのインフラと考えますが、どうやら中世までの下水道は、湿地や雨水の排水路として造られ、ついでに汚物を流すためにも使われたというのが実態だったのです。確かに、感染症の原因は病原菌という現代人の常識は、19世紀後半のパスツールなどの研究で初めて一般化した知識で、その昔は公衆衛生などという概念すらなかったのです。

 さて、時計を古代に戻して、エジプトと中国に下水道がなかった理由を探ってみましょう。
黄河に関しては、現代でも中国の下水道の整備水準が極めて低い現状から何となく納得できますが、エジプトについてはどうでしょうか?
 とても興味深い話があります。ナイル川が「最も上品な川」で氾濫が規則的に起きるため、上流の水位観測で氾濫時期を特定できので下水道がなかったというのです。(*注)
 つまり、こういうことなのです。ナイル川以外の他の大河では氾濫が予測できなかったため、自然を支配している神を取りなす神官と神殿が重視され、清めの水による沐浴(もくよく)を行う浴場が神殿には不可欠でした。それで、その排水設備として下水道が整備されたと言うのです。
 一方、ナイルでは水位観測によって氾濫時期が予想できるため、神に頼る必要がなかったので、神殿は少なく、下水道の必要性も低かったというわけです。それで氾濫時期を民衆に伝える王の権威は高まり、ピラミッドなどの王を讃える記念碑が多いのはそのためだとか。中々面白い説ですね。

 最後に下水道から衛生に少々話が飛びますが、場面は古代イスラエルです。
 旧約聖書には、モーセが紀元前16世紀に奴隷だったイスラエル国民をエジプトから解放し、中東の荒野を放浪するという記述があります。往年のハリウッド映画の名作“十戒”で描かれた世界ですが、モーセは神から事細かな律法を啓示され、民衆を統率したとされています。
 その律法の一つに「人目に付かない場所に小さなシャベルで穴を掘って用を足し、埋めるように」とあり、数百万人のイスラエル人の難民たちは皆その規則通りに行動しました。その結果、40年間もの長期にわたって、密集したテント生活を続けていたにもかかわらず、良好な衛生状態が保たれ、感染症が流行することはなかったということです。これは驚くべきことで、中世フランスのルイ王朝の時代でも、公衆衛生についての知識が全くなかったので、あの豪華絢爛なベルサイユ宮殿の庭は、何と排泄物だらけだったという話とは、対照的です。
 実際、中世のヨーロッパでは、外敵からの防御のために城壁に囲まれた町に人々が密集して住んでいた上、このような不衛生極まりなかったため、ひとたびペストやコレラ等が流行すると、あっと言う間に町中に蔓延し、死人の山ができる、という惨事を繰り返していたのです。
 それに引き換え、聖書の神の知恵は恐るべし! ベルサイユで華麗な生活を送った王侯貴族よりも、衛生的なテント暮らしのイスラエル人たちの方が健康で長生きできたのです。

*注 出典:「世界最古の下水道施設は宗教施設?」谷口尚弘;学会誌「EICA」第14巻第2・3合併号

(文責:小町谷信彦)
2019年4月第3号 No.59