橋の話題 12「臨時の橋~朝鮮通信使で活躍した船橋」

臨時の橋~朝鮮通信使で活躍した船橋

 2017年10月国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、歴史的価値の高い文書などを対象にした「世界の記憶」(世界記憶遺産)に、江戸時代の朝鮮王朝が派遣した外交使節「朝鮮通信使」に関する資料を登録しました。
 江戸時代は鎖国というイメージがありますが、実はこうして外国との交流が行われていたのです。中学校や高校の歴史の時間に朝鮮通信使のことは習いますが、私には朝鮮国王が徳川将軍家に派遣した使節団という程度しか記憶にありませんでした。そこで改めて関連書籍を読んでみると、意外なことに気づきます。実は朝鮮通信使を成功させたものの一つに「橋」があったのです。

朝鮮通信使のルートは、時によって変わりますが、今の長崎県対馬を経て、江戸をとおり徳川家康が祭られる日光東照宮(栃木県)までというのが基本。大名行列とは姿かたちも違う、色鮮やかな行列の様子は絵巻物などにも残され、教科書にも出ていたのを思い出します。
 経路をおさらいすると、今の韓国釜山から日本の対馬に船で渡り、さらに下関をとおり大阪を経て淀川も船で上っていったのです。そこからは、陸路を行列が一路江戸を目指します。しかし、ここで問題が持ち上がります。江戸時代は大井川をはじめ、主要な川には橋を架けず、人の行き来を制限していたのは有名な話。この川を朝鮮通信使の人たちはどのように渡ったのでしょう?

 今で言う、外交使節団ですから、丁重にお迎えしなくてはいけません。しかも、通信使の人数は多い時で500人を超えたとも言われています。それだけではなく、朝鮮半島から馬まで連れて来ていた時もあったのですから、通常の川越人足だけでは対応できません。大井川では5千人を超える臨時の人足がその役目を担ったという記録もあります。しかし、すべての川でそんなにたくさんの人を集めるのは困難です。そこでいくつかの川では「船橋」という臨時の橋の架設で対応していたのです。

美濃地方では起川(木曽川)・小熊川(境川)・墨俣川(長良川)・佐渡川(揖斐川)の船橋が記録に残っています。なんと臨時の船橋を作り、そこを朝鮮通信使が川を渡ったそうです。木曽川の船橋の様子は絵図が一宮市尾西歴史民俗資料館などに今もあり、ユネスコ登録記念に一般公開されました。木曽川では実に44隻の大きな船と233隻の小船を並べ全長855メートルにもなる臨時の橋。なんともすごい光景です。

仲尾宏先生の「朝鮮通信使」(岩波新書)によると、同資料館の編集した資料では、佐渡川(現・揖斐川)は川幅200メートル超で80~104隻、墨俣川(現・長良川)は300メートル超で105~116隻、小熊川(現・境川)は川幅40メートルで12~18隻、起川(現・木曽川)は川幅800メートルで174~281隻の船を一列に並べて鉄の鎖や大綱でつなぎ、両岸に巨大な丸太を打ち込んで支える、という構造だったようです。さらに上流には水流を緩めるための柵が設けられ、船橋が中央部分で蛇行しないよう繋ぎ止める索をも備えていたというのです。これらの設営、材料の調達は近隣の村々に命じて行っていたというのですから、時には課役の軽減を訴えることもあったそうです。
当然、当時の人々にとっても珍しいことですので、見物に訪れる人で大変な賑わいだったと言われています。
そして、この臨時の船橋は役目を終えるとすぐに撤去されてしまいます。そのうえ、その負担は地元の藩ですから、財政上も大変なことだったでしょう。しかし、今も昔も外交儀礼は大事なこと。さらに日本の技術やおもてなしを見せるためにも立派なものを作っていたのでしょうね。

今では絵図でしかお目にかかれないですし、設計図も残っていないものです。しかし、多くの人の手で、それこそ藩の威信にかけて作られた橋だったのでしょう。                 

                                     (執筆:札幌市在住 上野貴之)