東京の下町を歩いていると橋のたもとに公衆便所や交番をよく見かけます。東京でも郊外部ではあまり目にしませんし、札幌の町にもあまりないように思いますが、その理由は、町の歴史をたどると明らかになります。
江戸時代以前の橋は、建設費を安くするためと技術的な問題から、多くは両岸の土手を張り出して橋の部分を短くしました。橋詰広場は、その土手の造成で生じた空きスペースだったのですが、街中の貴重な公共広場として活用されました。
東京の日本橋の橋詰広場はその代表例ですが、東海道の起点、舟運の拠点として賑わった日本橋の橋詰広場はその情景が描かれた時代時代の浮世絵からその変遷を知ることができます。江戸初期の寛永年間の浮世絵には、町民や旅人が行き交う中、大道芸人や辻説法の僧侶が描かれ、幕府の禁令などを掲示する高札場(こうさつば)も置かれていたことがわかります。それが後期の天保年間になると、橋の通行の取り締まり、警護や清掃にあたる番人の詰め所である番屋、火事や泥棒を知らせる半鐘(はんしょう)などの公共施設のほかに、床見世、露天、茶屋などが軒を連ね、江戸の町の発展とともに中心地日本橋も賑わいを増していったことが見て取れます。
ところで、橋の架設費用の節約のために、道路よりも橋の幅を狭めるという手法もしばしば取られました。
実は地図上の橋の記号 注1)は、道路との接続部分で広がっている橋の形状を表しています。
ちなみに、郵便局の地図記号「〒」は、戦前、郵便行政を所管していた逓信省(ていしんしょう)の頭文字「テ」を記号化したもので、消防署の地図記号注2)は、火消しの道具の刺又(さすまた)からきています。
江戸の名残りがこんなところに残っているというのは面白いですね。
注1)橋の地図記号
注2)消防署の地図記号
さて、この町の賑わいの中心だった橋詰広場ですが、明治時代になるとその様相が一変します。明治政府が橋詰広場での店の設置を禁止したのです。その上、工法も進化し、道路と同じ幅の長い橋を安く簡単に架けられるようになり、工事で橋詰に空地が生じることもなくなったのです。
しかし、1923(大正12)年に発生した関東大震災は、災害時の橋詰広場の役割を再評価する契機となりました。災害時対応、治安という観点から、陸と川の交通の要所となる橋詰広場のポテンシャルが再評価され、東京の震災復興計画ではひとつの橋に対して、原則として4か所の橋詰広場を設置することが制度化されました。具体的には、一次避難所としての利用やポンプ、防災倉庫、公衆トイレといった災害時に必要な施設を設置するほか、治安の要となる交番が設けられることになりました。そして戦後、橋詰広場の多くは公園として整備されるようになりますが、1958(昭和33)年の法改正で制度が廃止されてしまいました。これがなぜ東京の下町に橋詰広場が多いかという理由ですが、いわば橋詰広場は、江戸から戦前にかけての町の歴史を語る生き証人とも言えそうですね。
近年、都市に残された貴重な自然資源として川が注目されています。川に近づける親水護岸を整備して、川辺を楽しく散策できるルートが各地でつくられるようになりました。
橋詰広場は、その歴史的な価値を大切にする必要があることは言うまでもありませんが、昨今、全国の都市で進められている「水と緑のネットワークづくり」においても、その現代における価値を再認識して、ひとつの拠点施設として整備を進めて欲しいものです。
2021年9月第1号 No.105号
(文責:小町谷信彦)