留萌の旅で、もう一つ胸を突いたのが、敗戦により樺太からの引揚船三船がソ連軍の攻撃を受け、多くの犠牲者を出した事件。 「三船殉難之墓」と刻まれた箱型の墓と、それに寄り添うように立つ「殉難碑」の前で、遠い日の悔しい思い出に浸った。
昭和20年8月15日正午、天皇はラジオを通じて、ポツダム宣言を受理すると述べ、戦争は唐突に終わった。 「敗戦」 ではなく 「終戦」 としたのが、心憎い。
これに基づき22日未明、三隻の引揚船が樺太から大勢の避難民を乗せて小樽に向け出航した。三隻は小笠原丸(1403トン、乗船人員703人)、第二新興丸(2500トン、乗船人員3600人)、泰東丸(880トン、乗船人員780人)。以下、留萌青年会議所内2001年委員会発行『ガイドブック「留萌」』 による。
同日午前4時20分ごろ、小笠原丸が留萌沖合に差しかかった時、国籍不明の潜水艦(後にソ連と判明)の攻撃を受け、あっという間に沈没し、死者・行方不明者642人を出す大惨事となった。生存者は61人。目前の海面が一転、目を覆いたくなるような惨状を呈した。
続いて午前5時30分ごろ、第二新興丸が小平町鬼鹿沖でやはり国籍不明の潜水艦に攻撃され、大破。死者・行方不明者400人を出すが、自力で航海を続け、留萌港に入港した。生存者は3200人。
続いて午前10時ごろ、泰東丸が小平町沖で同じく国籍不明の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、死者・行方不明者667人を出した。生存者は13人。
それまで暮らした土地を捨てて避難する敗戦国の国民を、ソ連潜水艦はそうと知りつつなぜ攻撃したのか。だがその問いにソ連(ロシア)はいまも答えていない。
原爆が投下された戦争終盤に、駆け込むように参戦したソ連は、降伏した日本をあざ笑うかのように、南樺太及び北方四島を武力で制圧していった。この間に起こった樺太の電話交換手の集団自決は、その代表的な悲劇だが、この樺太からの引揚船三隻に対する攻撃は、武器を持たない民間船を狙った一方的なものであり、許し難い卑劣な戦闘行為と断じたい。
今年は戦後80年。敗戦国日本にいまを生きる我々は、この先、ロシアという国家とどう付き合っていくべきなのか。改めて重い課題を突きつけられた気持ちになるのは、昭和の残影を引きずる老境ゆえ、とだけでは済まされまい。

三船殉難碑(著者撮影)
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。