橋の名に込めた大惨事への思い

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 留萌から国道232号を北上すると苫前郡苫前町に至る。この三渓地区に通じる途中に、「射止橋」という名の橋がある。なぜこんな名が付いたのかというと、いまから百年も前、熊がこの先の集落を襲い、12人もの死傷者を出した挙げ句、射殺された現場なのだという。
 事件が起こったのは1915(大正4)年12月9日午前10時半ごろ、苫前村字三毛別(当時)御料農地六線沢の開拓地に大熊が現れ、農家の窓を破って入り込み、幼子(6歳)を殴り殺し、逃げる母親(34歳)を背後から襲って食い殺した。熊は母親の遺体をくわえて向かいの山中に姿をくらました。集落は騒然となった。
 翌朝、集落の人たちは熊の足跡を辿って探索し、変わり果てた母親の遺体を発見、自宅に戻って同夜、通夜を催したが、そこに再び熊が現れ、柩(ひつぎ)を引っ繰り返して立ち去った。集落は相談のうえ、男衆は結束して熊と対決する体制を整え、女性と子供はもっとも安全と思われる一軒へ集めて、一晩中火を焚いて警戒した。その間に1人の若者が遠く離れた警察署へ通報のため走った。
 ところが12日夜、この家に再び熊が現れ、臨月間近な母親(34歳)を襲った。母親は幼い二人の子供を連れて逃げたが、熊は背後から引きずり倒し、爪をたてて腹を引き裂き、胎児を引き出し音をたてて食べたうえ、逃げようとする女性や子供たちを片っ端から打ちのめして、立ち去った。
 集落は恐怖のどん底に突き落とされ、パニック状態に陥った。集落の男衆をはじめ急報で駆けつけた警察官や地元ハンター、さらには軍隊まで出動する騒ぎになった。新聞も連日、熊害を報道し、恐怖は一段と高まった。
 14日朝、熊が集落から5㌖ほど離れた六線沢川に架かる橋の対岸に姿を現した。猟師が銃を構え、狙いを定めて発射した。弾丸は見事に命中したが、その瞬間、熊は物凄い唸り声を挙げて立ち上がり、身を震わせながら崩れるように倒れた。
 猟師を始め警察官や男衆たちが恐る恐る近づき、死んでいるのを確認すると、どっと喜びの声を上げた。熊の遺体はにわか仕立ての橇(そり)に乗せ、近くの古丹別神社下まで運ばれ、晒された。と、それまで快晴だった空が突然、曇り、風速40メートルを超える大暴風雨となった。それがいつまでも収まらず、7時間も続いた。人々は熊の暴挙が天の怒りに触れて熊の昇天を阻んだのだと語り合い、これを「熊嵐」と呼んだ。
 古丹別神社下に「熊害慰霊碑」が建立されている。苫前町は昭和も戦後になって、この凄惨な事件を長く後世に伝えようと、遭難現場を復元したうえ、現場へ連なる道路を「ベア・ロード」と名付け、熊を仕留めた近くの橋を「射止橋」と呼んで整備した。
 「射止橋」はコンクリート造りに木造の欄干をほどこしただけの、何の変哲もない橋だが、そこに立つと、往時の恐怖が蘇ってくるのを覚えて、身がすくむ。

とままえベア・ロードの案内看板

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。