「国境橋」に先人の影が漂う

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 空知管内長沼町のマオイの丘から国道337号を辿り、途中、泉郷から舞鶴追分線を走ると、長沼町と千歳市の境界に「国境橋」という名の橋が架かっている。えっ、国境って何?
 実はこの橋、北海道が東西の蝦夷地と呼ばれた時代の境界線で、少し前までは案内板が設けられ、次のように書かれていた。

 国境橋 明治23年、近世東蝦夷と西蝦夷の境界線。明治以降千歳郡(石狩支庁)と夕張郡(空知支庁)の境界。

 つまりこの橋の下を流れるケヌフチ川を境界線に、北側が長沼町24区、南側が千歳市泉郷になり、遠く遡ると前幕領時代から後幕領時代(1799~1867年)にかけて北海道の日本海側を西蝦夷地、太平洋側を東蝦夷地と呼んでおり、ここがその境界線だったというわけ。
 従って通行人が境界線を越えるには、それなりの手続きが必要だったはずだが、いまは見渡す限り畑作地帯で、橋下を流れるケヌフチ川の水量も減っていて、歩いて渡れる感じさえする。

国境橋ー長沼町東12線15、24区(筆者撮影)

 幕末の探検家、松浦武四郎がこの地を訪れたのは、『夕張日誌』によると安政4年(1857年)7月8日。アイヌ民族4人とともに石狩を出立して、9日、タンネトウ(長沼町)を見て、カマカ(千歳市釜加)に宿泊。日誌にこう書いた。

  —過てカマカ州と云に至る。一本の合歓木(ねむのき)ある下に宿す。此処よりイサリブト三里。晩雲漸収(ようやくおさまり)月将斜見(つきまさにななめにみる)……。西を顧みれば垂舞(たるまい)シコツ、絵庭(恵庭)、サッポロの岳々隠々とし雲間に突出す。清風吹度るが故に今夜は蚊の愁を忘れて一睡したり。

 タンネトウとはアイヌ語で大きな沼、を意味し、武四郎はこの地を「長沼」と呼び、「廣袤知難(そのこうぼうしりがた)し」と表現した。これが後に正式な地名となるわけで、武四郎が正式な命名者なのは明らかであろう。
 翌日、出立した武四郎は、ヲサツ沼を見て、三里余先のツカベツ川口を過ぎて冷水平に至り、清水を見つけて上陸する。その後、ユウバリ川(夕張川)を遡って探検する。
 国境橋が架けられたのは、この時期前後と想定できる。ここを踏査して12年後に明治維新を迎え、新政府の開拓使蝦夷地御用掛になった武四郎は「蝦夷地を北海道と称え、11国86郡を置くべし」と上申。これに基づき石狩国に9郡を置き、この周辺一帯は夕張郡に含まれ、「国境橋」はそのまま残されたのである。

 北海道の開拓が始まり、タンネトウから正式に「長沼」になったこの地域にも、多くの開拓者が入植した。『長沼町開基100年史』(伊藤兼平著、昭和63年)には馬追原野が切り開かれ、豊かな田園地帯が作り上げられていく経緯が克明に記載されている。
 筆者の祖父は四国香川県出身で、手元の除籍簿には「明治28年(1895年)2月28日、長沼村東三線南三番地」に開拓者として入植と記されている。 数え年21歳の次男坊で、妹と二人の北海道行きの陰に、多くの苦渋が潜んでいたであろうことが容易に推察できる。その後、結婚、明治35年(1902年)3月29日、空知郡砂川町字上砂川町へ移住している。
 国境橋は何の変哲もない小さな橋だが、ここに立つと、開拓の苦労話どころか、愚痴の一つもこぼさず、忽然と逝った祖父の面影が、先人たちの姿に混じって茫々と浮かび上がってくるのを感じる。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。