妻恋橋に秘められた夫婦愛

 岩見沢市大願に「妻恋橋」という小さな橋がある。開拓期に設けられて、現在は「大願橋」に変わったが、なぜこんな名がついたのか。その陰に入植した若者と故郷に残してきた若妻の愛情物語が秘められている。
 岩見沢は1882年(明治15年)、岩手県人がこの地で旅人宿業を始めたのを創始とする。以後、山口、鳥取など12県から士族団体が移住し、一般の移住者も増えて開拓がしだいに進んでいった。
 福井県から来道して大願地区に入植したスケジロウもその一人だった。そのころの大願周辺はうっそうとした樹林に覆われていた。その樹木を一本一本切り倒し、伐根して土地を耕し、そこにムギ、エン麦、イモなどを植えていく。
 スケジロウは親元を出る時、結婚したばかりの若妻に、
「必ず暮らしのよいところにしてすぐに迎えにくるから」
と言い残してやって来たが、開墾の仕事は骨が折れて、暮らしの見通しも立たない。便りを出すことができず、絶望して倒れてしまうこともあり、自分が惨めに思えてならなかった。
 たった一つの慰めは開拓地を染める美しい夕陽だった。スケジロウは仕事が一区切りつくと小さな木橋の欄干に腰を下ろし、夕日を眺めながら、
「おーい、おはなー、おーい、おはなー」
 と泣きながら、妻の名を大声で呼んだ。だが、それに応えるのは風の音ばかり。でもスケジロウは毎日毎日、妻の名を呼び続けた。
 誰もいない開拓地のはずなのに、この話は人づてに知られるようになり、誰言うとなくこの橋は「妻恋橋」と呼ばれるようになった。
 スケジロウのその後は、明らかではない。開拓に力尽きて立ち去ったのかもしれない。一説にスケジロウ自身が一匹のタヌキだったのではないか、と言う人もいて判然としない。だがこの話は開拓期の悲しい物語として、長く後世に伝えられてきたのだった。
 「妻恋橋」は現在、コンクリート橋になり、橋の名も地名からとって「大願橋」に替わった。だがここに立つと、先人たちの労苦が偲ばれ、そのお陰で豊穣の地を受け継いだありがたさをしみじみ実感させられる。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。