九十歳過ぎの高齢だから、もういい加減に止めたいと思いつつ、なお止められないのが取材の旅。今回も知人の車で、日本海の海岸線国道231号をひた走った。
浜益、増毛を越えて留萌へ。この先、浜益トンネルを抜けると、白銀の滝が飛沫を上げる雄冬岬だ。このルートは思い出が深い。もう五十年も前、道内の民話や伝説を書くことになり、最初に取材で訪れたのが増毛町別苅の海音寺山門に立つ地蔵だった。
この地蔵、昔は駅亭そばにあったが、やがて誰も住まなくなり、草深い山中に置き去りにされた。ある日、近くの集落の老婆が山の方に坊さんが佇んでいる夢を見る。不思議に思い、手分けして探したところ、草むらの中に地蔵がぽつんと立っていた。驚いて近くの海音寺に運んで祭った。
明治になり、不思議なことが起きた。集落で火災が発生し、人々は猛火の中、逃げ惑うが、その時、坊さん姿の人が現れ、泣きわめく子供たちの手を引いて安全な場所に導いた。火事が収まり、坊さんを探したが、見当たらない。
焼け残った海音寺山門の地蔵の右手を見ると、前日まで白かった手が焦げたように黒くなっていた。人々は地蔵が坊さん姿になり、子供たちを助けたのだと噂し合った…。
そんな昔話を思い出しながら、車は留萌に入る。留萌に伝わる悲しい思い出は昭和31(1956)年2月3日に起こった吹雪の災難だ。
その日、留萌地方は朝から天候が悪く、夕刻から吹雪になった。午後六時ごろ、留萌市沖見町に住む原田菁子(中学一年生)、瑛子(小学三年生)の姉妹は、町まで使いに出て帰り道、物凄い吹雪に襲われた。
姉は妹を励ましながら帰宅を急いだが、わが家を目前にして力尽き、折り重なって雪の中に倒れた。その姉妹の体を白魔が烈しく叩きつけた。
姉妹がいつまでも帰らないので、家族が騒ぎ出し、近所の人たちが総出で探したが、その日はついに発見できなかった。翌朝から大がかりな捜索が行われたが、見つけることができず、天候が回復した5日になって、やっと姉妹の遺体を発見。涙ながらに葬った。
人々は遭難現場近くに「姉妹星の碑」を建立し、冥福を祈った。その時に詠まれた哀しみの一句が碑面に刻まれている。
その日より 雪野の果ての 姉妹星(松橋英三)
どこの町にも忘れてはならない歴史が息づいている。碑前に立ち、今回もその思いを強く感じる“学びの旅”だった。

姉妹星の碑(著者撮影)
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。