歳三が渡った決死の橋 函館五稜郭の「一の橋」

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 函館市の五稜郭公園は、戊辰の役最後の戦いとなった箱館戦争の舞台で、一世紀半過ぎたいまも、戦塵の匂いが立ち込めている感じさえする。あの日―、明治2年(1869年)5月11日未明、新政府軍の箱館総攻撃が始まった。箱館山から陸兵が雪崩の如く襲い、海上から軍艦が砲撃を続け、町は一瞬にして火の海と化した。
 五稜郭箱館奉行所を拠点とする蝦夷島臨時政権総裁の榎本武揚は、急遽、幹部らを集めて、箱館市中の一本木関門を奪い返す作戦を伝えた。弁天岬台場との連絡を絶たれ、急ぎ回復せねばならなかった。

 陸軍奉行並の土方歳三(ひじかたとしぞう)が「その仕事、任せて欲しい」と述べ、奪回作戦はたちどころに決まった。
 歳三は自ら選抜した額兵隊2小隊50人を率いて、馬に跨った。黒羅紗の詰襟服に陣羽織を着込み、白布を首に巻き、大刀兼定を背にしている。新選組以来の同志、相馬主計らが後ろに従った。
 これが最後の戦いになる―。歳三は自らの思いを胸に、静かに目を閉じた。網膜に亡き近藤勇の顔が浮かんだ。笑っている。それに応えるように歳三も、薄く笑った。
 五稜郭は周囲を堀で固めており、出入りできるのは表門1カ所だけ。歳三は本陣前を出立すると、表門の半月堡塁に連なる二の橋を渡り、右に折れて一の橋を渡った。この一の橋こそ、死へ向かう最後の橋といえた。
 いま、ここに立って周囲を眺めると、松の樹木が生い茂り、のどかな風情さえ感じる。だが同志の新撰組長近藤勇を失い、「わが輩は死に遅れた」と呟き続けた歳三にとってこの橋は、盟友との約束を果たすための”決死の橋”といえた。

土方歳三

 一の橋を渡って郭外に出た歳三は、真っ直ぐ前を見て進んだ。その後を額兵隊が続いた。途中、中島三郎助が布陣する千代ケ岱台場に立ち寄り、短い会話を交わす。両者が何を語ったのか記録もないが、死を覚悟した者同士だけに、言葉のはしはしに見えない花火が飛び散った、と思いたい。
 歳三は再び、隊列を率いて出立した。前方に真っ直ぐ道路が延びている。現在も残る古道だ。一本木関門までおよそ半道(2㌖)もあろうか。
 歳三は馬の腹を蹴り、速度を早めた。隊列が急ぎ足で続いた。やがて関門が近づく。関門周辺は新政府軍の軍勢に占拠され、厳しい警戒網が敷かれていた。馬上の歳三は大きく息を吸うと、目を見開き、敵陣営に一直線に突っ込んでいった―。

歳三はこの橋を渡って進撃し、戦死した=箱館・五稜郭一の橋(筆者撮影)

 この最期については諸説あるが、代表的なのは、馬で関門を守備する新政府兵士に近づくなり、相手を叩き斬り、馬の腹を蹴って走らせ、鉄砲で狙撃されて落馬、戦死したというもの。また、乱戦の中、抜刀して一本木関門に仁王立ちし、「逃げる者は斬る」と叫び、弾丸を受けて倒れた説‥など、壮絶な最期を伝えている。
 地元に残る話は少し違う。負傷した歳三は、相馬らの手で背後に建つ農家の納屋に運ばれたが、出血夥しく、やがて「すまんのう」の言葉を残して絶命する。死亡時刻は書物によって異なるが、『蝦夷追討記』は午前7時35分としている。
 歳三の遺体は同志らの手で五稜郭に運ばれ、一の橋、二の橋を通って、本陣の東面に立つ土蔵と並ぶ松の木そばに安置された。榎本武揚はじめ士官らは涙を流して合掌したと伝えられる。この松の木は現存する。
 歳三が戦死した5日後の5月16日、千代ケ岱台場が落ち、中島三郎助は戦死。その夜、榎本は腹を切ろうとして失敗。これにより18日、五稜郭は落城し、戊辰戦争は終焉へ。

 五稜郭は現在、「特別史跡五稜郭跡」に指定され、一般公開されているが、いつも観光客で溢れている。どれほど入場者がいるのか。箱館奉行所に入場料を払って入館する人は毎年60万から80万人にのぼる(管理運営会社の話)というから、五稜郭だけを巡る人数はその10倍としても膨大な数字になる。
 ことに最近、入場者が目に見えて増えてきた。アニメ作品に出てくる歳三の影響が物凄いのだ。実は歳三は箱館戦争で死なず、生きて正義の刃を振るう。しかもその舞台は、一の橋ではなく、二の橋なのだ。熱烈なファンはまるで”聖地巡礼”のようにやってくるのだという。
 歳三、死んで一世紀半。命の炎がいまも赤々と燃え続ける‥、という現実に、不思議な感を抱いて瞑目した。

歳三が出撃した五稜郭の略図。左下に「一の橋」「二の橋」が見える

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。