川の話題14「土木と自然環境~岡崎文吉の遺産」

 今年は、北海道治水の祖とされる岡崎文吉博士(1872(明治5)年生まれ)の生誕150年です。ゆかりの地、石狩市では市民図書館で企画展が開かれました。
 岡崎文吉が1909(明治29)年に作成した「石狩川治水計画調査報文」は石狩川の治水計画の礎を築き、とりわけ日本で初めて観測された洪水時の河川流量は、1965(昭和40)年に計画が改訂されるまで、半世紀にもわたって石狩川の治水の指標として使われました。
 岡崎文吉は計画の検討に先立ち、本州の主な河川の視察のみならず、欧米の治水状況の調査を1年間休職して行いました。そして、石狩川の治水は米国のミシシッピ川のように自然の流れを生かして蛇行させ、不具合のあるところだけ手を加える方式が最適との結論を得ました。

(出典:石狩川治水の曙光(北海道開発局))

 残念ながら、この方式は諸般の事情から採用されず、ショートカット方式で治水事業は進められることとなりましたが、岡崎文吉が唱えた「自然主義」の産物、「岡崎式短床ブロック」は各所で使われ、茨戸川(札幌市)に当時のままの姿を残しています。
 岡崎の名が付されたこのブロックは、一体どんな物かと言うと、穴を開けて鉄線を通したコンクリートブロックを連結させてマット状に敷き並べるというものなのですが、川岸や川床の形が変化しても柔軟にその形に追随するという優れもので、自然主義の範としたミシシッピ川でも最近まで使われていたと言いますから中々のものです。

 岡崎文吉は、1918(大正7)年に北海道を離れ、旧満州の大河、遼河の改修のために中国に渡りましたので、北海道で自然主義の治水を実現するという彼の夢は叶いませんでした。

茨戸川の岡崎式単床ブロック(出典:北海道開発局)

 しかし、時代ともに河川のショートカットによる弊害が問題視されるようになり、1980年代の終わり頃には、自然を生かした川づくりとして「多自然川づくり」あるいは「近自然河川工法」が始まりました。まさに岡崎文吉の「自然主義」は、長い眠りから覚め、現代に花開いたと言えるかもしれません。
 岡崎文吉が熱い思いを注いだ北海道では、釧路湿原の再生事業として、かつて直線化された釧路川の蛇行の復元が進められ、2011年に自然な川の姿が取り戻されました。

 さて、北海道の最北のサロベツ湿原では釧路湿原とはまた別の課題が生じました。
サロベツでは、農地の生産性向上のために排水を進め、地下水位を下げたのですが、隣接している湿原の水位も下がり乾燥が進んでしまったのです。この土地の水位を巡っての相反する課題を土木と土地利用の知恵がみごとに解決しました。
農地に敷設された水抜き水路の湿原側に堰を設け、湿原の排水を抑制することで水位の低下を防ぎ、加えて農地と湿原との間に緩衝帯を設けることでその効果を高めたのです。
 環境との共生のために開発された土木技術は他にも様々あります。
 河川の堰堤で魚の遡上が妨げられないように設置する魚道、一定の塩水濃度を要するシジミの生息環境を維持するための堰堤の設置及び運用の調整など、多様な環境の必要からケースバイケースで自然との共生技術が土木事業において開発されています。

 ひと昔前、土木事業は環境破壊の元凶と言われた時代がありました。開発か自然保護かという二者択一の問題として両者の対立が先鋭化して社会問題となったのです。
 それも今は昔、「自然との共生」は言わば当然の配慮事項とされるようになり、SDGsという広い視点での事業のあり様が問われる時代になったと言えるでしょう。
 岡崎文吉の蒔いた「自然主義」という種が、この自然の宝庫北海道でさらに大きな果実を生み出すことを期待します。

(参考)岡崎文吉について詳しく知りたい方は下のリンクをご覧ください。
   「岡﨑文吉 ~石狩川の流れに、理想の川の姿を求めて(第1回)」

2022年4月第2号 No.118号
(文責:小町谷信彦)