川の話題 3「歴史の舞台となった川」

歴史の舞台となった川

河原は、歴史的な戦(いくさ)の舞台としてしばしば登場しますが、代表選手は「川中島の合戦」でしょうか?織田信長が徳川家康と組んで浅井・朝倉連合軍を破り、天下統一への道に踏み出した「姉川の戦い」を思い浮かべる方も多いかもしれません。あるいは、源氏の夜襲で水鳥が一斉に飛び立った羽音におじけづいた平氏が戦わずして逃げてしまった「富士川の戦い」も河原が主戦場でした。孫子の兵法には、「朝は気持ちがはつらつとしているが、昼になるとだれてきて、暮れともなると虫の息なので、敵を攻めるのは昼過ぎや暮方が良い」とありますが、ましてや、真っ暗な夜の話、そもそも兵士の数で劣勢だっただけでなく寄せ集めだった平氏軍は、逃げ腰で「見えない敵」におびえていたのでしょう。
ちなみに、水鳥の羽音を鎧と鎧が触れ合う際に生じる音「びびる音」と勘違いした平氏の逸話が、「びびる=おじけづく」の言葉の由来となったようですが、逆に、鐘や太鼓の音は、夜の戦いの際の進軍や退却の合図としてポジティブや役割を果たしました。昼は旗や幟が合図になるのですが、夜は暗くて見えないので音が頼りだったのですね。
横道に逸れましたが川の話題に戻って、河原は、なぜ戦場になりやすいのでしょうか?
一つには、河原は平坦で広いので大人数の兵を布陣しやすいということ、そして、進軍してきた両軍が川を挟んでにらみ合うという構図は、時代物の映画のワンシーンで見たことがありませんか?現在でも川が県境という場所は数多くありますが、戦国時代も川を挟んで国と国が対立というケースも普通だったのでしょう。

さて、川を戦場としてではなく、戦術として利用した例もあります。
戦国時代の戦(いくさ)上手、とりわけ、戦わずして勝つ知恵者と言えば、豊臣秀吉に勝る人はいないでしょう。秀吉の中国は毛利討伐の際の「高松城の水攻め」はご存知の方も多いでしょう。城主清水宗治に調略を拒否され、この三方堅固な難攻不落の城の攻略法として案出したのが、城の西を流れる足守川を堰き止め、梅雨を集めて城を湖に浮かぶ孤城にして兵糧攻めという奇策。水による守りを攻めに転じた逆転の発想でした。そして、秀吉が秀逸なのは、土嚢1俵につき銭百貫、米1升という破格の手間賃で土嚢運びを募った点で、地元住民はこぞって昼夜兼行で働き、3kmにも及ぶ堤防をわずか12日で完成させたとのこと。要した費用は、現在価値換算で何と100億円という大盤振る舞いでしたが、この突貫工事のお陰で城は陥落、打って返して明智光秀を山崎で討ち天下人となったわけですから、秀吉の「猿知恵」たるや恐るべしです!
このような川と戦いとの関わりも今は昔、現代の我々の川との関りは、自然の猛威、洪水との闘いは相変わらず続いていますが、飲料や農業、産業用水としての利水、そして水面のレクリエーション利用といった親水、天下泰平の世とはありがたいものです。(N.K)