川の話題15「桜堤の始まりとゆえん」

 花見と言えば桜というのは、世の常識ですが、いにしえの奈良の都の時代は花と言えば梅で、万葉集に載せられた梅を詠んだ歌は110首もあり、43首の桜を大きく上回っています。
 それがいつ頃から、桜が花見の主役の座を奪ったのでしょうか?
桜の花見は、平安時代に三筆として名をはせた嵯峨天皇が京都・神泉苑で開いた花見の宴がその始まりで、これを契機に貴族の間で桜が愛でられ、庭にも盛んに植えられるようになったとされています。それを象徴するように平安時代の古今和歌集では、桜の歌が70首、対して梅の歌18首と逆転しています。さらに鎌倉・室町時代には、貴族だけではなく武士の間にも花見の習慣が広がり、豊臣秀吉が主催した吉野の花見や醍醐の花見は、相当派手で大規模なものだったようです。

 では、今日全国各所で見られる堤防上の桜並木「桜堤」は、いつ頃から造られるようになったのでしょうか?
 それは、庶民に花見を楽しむ風習を広めた、江戸時代中期の徳川吉宗の時代に遡ります。
 吉宗は江戸の庶民が行楽を楽しむ場として飛鳥山、御殿山、愛宕山に桜を植えましたが、隅田川、玉川上水沿いにも桜並木をつくり、花見を奨励しました。その狙いは、興味深いもので、当時の時代背景を知ると、なるほどと頷かされます。
 ご存知の通り、吉宗はひっ迫した幕府の財政を立て直すために質素倹約を旨とする享保の改革を断行しました。しかし、歌舞伎や遊里などの風俗の取り締まりは庶民の楽しみを奪うことになり、それに代わる新たな健全な娯楽として取り入れたのが花見だったのです。
 また、生類憐みの令によって徳川綱吉の時代に禁止された鷹狩も復活させましたが、鷹狩で田畑を荒らすことへの代償措置として、鷹狩の場に桜を植え、花見客を呼び込み、農民の収入につなげるという意味もありました。
 加えて、花見にたくさんの人々が集まり、道を歩くことによって、堤防が踏み固められ、強化されるという隠れた効果もあり、これは河川敷で花火や堤防上で縁日が催される所以でもありました。
吉宗と言えば、町民に扮して悪を懲らしめるTV時代劇「暴れん坊将軍」をイメージされる方も多いかもしれませんが、さすが「江戸幕府の中興の祖」として歴史教科書にも登場する傑物、その政治家としての考えの深さと戦略性には学ぶべき点が多いですね!

 さて、豪華絢爛に咲き誇るのも束の間、潔く花吹雪になって乱れ散る桜は、しばしば、儚く移ろう風物をこよなく愛する日本人の伝統的精神性の象徴とされます。
 一方、町の中心に高くそびえる教会の尖塔に永遠を感じ、天を仰ぎ見る欧米人の心情には、四季折々に繰り返し花を咲かせるバラが相応しいのかもしれません。
 「富士には月見草がよく似合う」と述べたのは某有名作家。
 では、北海道には、どんな花が似合うと思われますか?

2022年8月第1号 No.124号
(文責:小町谷信彦)