川の話題12「「川のまち江別」復活へのスタート」

 近年、少子高齢化の急速な進行と人口減少が大きな問題となり、とりわけ地方都市では町の死活問題として賑わい再生のための取り組みが各地で進められています。その多くは、商店街や中心市街地の活性化のために道の賑わい取り戻そうというものですが、昨今、川に着目してまちづくりを考えるという新たな動きも活発になってきました。

 当社が立地する江別市でも、2020年に「かわまちづくり協議会」が設立され、千歳川の水辺を有効活用し、賑わいを創出する計画の検討が進められてきましたが、先月(2022年1月)、「かわまちづくり計画書素案」がまとめられました。

 この「かわまちづくり計画」は、北海道開発局札幌開発建設部が施工する江別市街築堤整備(石狩川・千歳川堤防整備)に加え、江別市が国の「かわまちづくり支援制度」を活用して、市民が水辺で楽しめる親水護岸などを整備しようというもので、江別市の都市計画マスタープランや観光振興計画で掲げている「江別駅周辺の歴史性や良好な河川環境などの特性を活かして地域の魅力を高める」という地域目標の実現を一歩進めるものです。
 また、工事に伴い移設される歴史的に貴重な木骨石造倉庫である旧岡田倉庫(江別市指定文化財)が、明治から昭和初期にかけて鉄道と舟運の結節点として交通の要衝であった往時の江別市街地(江別港)の歴史を物語る数少ない建造物であることから、地域の魅力向上のために保存・利活用することが検討されています。

旧岡田倉庫(アートスペース外輪船:写真提供 江別市広報広聴課)

 さて、このように川のまちづくりが始まろうとしていますが、実はその昔、江別は「川の
町」だったことをご存知でしょうか?
 前述の旧岡田倉庫がその名残りを留めていますが、物流の中心が明治の開拓期には舟運だったのが大正時代には鉄道輸送に変わるまで、江別市は石狩川舟運の中継拠点として繁栄しました。そもそも江別と川との深いつながりは、地名の由来がアイヌ語の「ユベオツ」(サメのいる川)という説があることからもうかがい知れます。
 歴史を遡ると、江戸後期の1752年に岐阜の豪商、飛騨屋久兵衛が支笏湖周辺の山から伐り出した木材を漁川と江別川を経由して石狩川河口の木場まで搬送していたことが記録に残されています。飛騨屋は、後志から釧路や天塩まで当時蝦夷地と呼ばれていた北海道全域の蝦夷檜(エゾマツ)の伐木事業を独占し、莫大な利益を手にしましたが、国後島のアイヌの反乱の責任を負わされて全ての利権を失い、撤退しました。
この時代の江別には、江別駅からほど近い江別川と石狩川の合流点付近(現在、江別河川防災ステーションが立地)に「留場所」があり、流送されてきた木材が筏に組まれ、江戸や大阪に舟で運ばれました。この留場所も伐木事業の衰退とともに寂れてしまいますが、百年の休眠期を経て、明治の開拓時代の到来により最盛期を迎えたのです。明治24年の新聞には「この木揚場にて引き揚げたる木材は数十万石」とあり、その翌年、江別駅近くの機関庫を改装して作られた鉄道会社専用の木工場が枕木などの鐡道材の製材を開始し、材木を中国にまで輸出するようになると、江別川河口の三角地帯には次々と製材工場が建ち、百軒もの家が立ち並んだと言います。

 江別の歴史は、水害との闘いの歴史でもあり、川の恩恵を享受した歴史でもあります。
良くも悪くも川とともに歩んできた町と言えるでしょう。
 今、まさに動き始めた江別の「かわまちづくり」が、江別の懐かしい繁栄の時代を「町の記憶」として留めると同時に、水辺との楽しい関係を演出する「河川空間とまち空間の融合」を実現し、1世紀余りの時を経て「川の町江別」が復活することを待ち望みたいと思います。

 2022年2月第1号 No.113号
(文責:小町谷信彦)