治水の始まりは「決断」から
昨今、世の中の急激な変化に柔軟に追随できず、ひと昔前に隆盛を誇っていた会社が存亡の危機に陥るというケースは珍しくありません。現代の経営者の多くは、時代の先を読んだ果敢な変革という会社の存亡をかけた決断を迫られていると言えるかもしれません。
さて、この「決断」という言葉、実は「治水」と深く結びついていることをご存知でしょうか?
中国最古の王朝、夏(か)の始祖「兎(う)王」が行った治水がその語源なのです。
兎王の父は、治水に力を注ぐも失敗に終わり、その責任を問われ死罪となりました。
その後を継いだ兎王は、学問と工夫により治水を見事に成功させましたが、それは蛇行する河川の一部を意図的に低くして大洪水の際に一部の土地に水を溢れさせ、下流に大きな被害が及ぶのを防ぐというものでした。要するに、兎王は一部の村や田畑を犠牲にするという「決断」によって大被害をなくしたのですが、この成功により兎王の治世は盤石なものとなり、「治水の祖」として歴史に名を残すことになりました。
「決」の字義を調べると「夬」は手で分ける様子や割る様子を描いた象形文字で、それに「さんずい」(川)が付くことから「堤を切る」という意味であることがわかります。
しかし、どこで堤を切り、どの村を犠牲にするかを決めるのは覚悟の必要な難しい「決断」でした。つまり「決断」とは「堤防を断つことを決する」という語意が転じて、覚悟を持って「はっきり決める」という意味になったのです。
さて、堤防を人為的に切るという行為は、古今東西を問わず、昔から戦いで用いられた戦術の一つで、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めを思い浮かべる方も多いことでしょう。
しかし、その昔は戦いに限らず大雨で氾濫の危険が迫ると洪水被害を軽減するために、「態(わざ)と切り」と呼ばれる堤防切りが各地で行われていたようです。
例えば、江戸時代の佐賀の「態と切り」は、平野の真ん中に設けた遊水池が洪水で一定の水位を超えると、藩の役人が城と城下町を守るために遊水池の堤防を切ったそうです。
さすがに、明治時代以降、法治国家に変わってからは、一部の住民を犠牲にするという乱暴な手法は余程のことがない限り実施されなくなりましたが、淀川では、明治以降も3回「態と切り」が行われています。とりわけ、3回目の昭和28年の淀川支流の神崎川での「態と切り」は両岸住民が厳しく対立し、大阪府を間に挟んだ大騒動だったようです。(詳しくは「物語 日本の治水史」竹林征三著 鹿島出版社 をご覧下さい。)
北海道でも、大雨が降ると川の両側の集落は競って土のうを積み上げ、一方の堤防が決壊すると集落や田畑が守られた方の集落の人たちが万歳を叫んだことから「万歳堤防」と呼ばれたという堤防もあります。
また、自分の郷里を守るために対岸の堤防を切り、自らは奔流に飲まれて命を落としたことから、地元の人達から神として祀られたという、命がけの決断もあったようです。
川をめぐっては、洪水時の右岸と左岸、あるいは上流と下流で利害の対立だけではなく生活や農業のための水の利用に関しても地域同士の水争いは絶えませんでした。この諍い(いさかい)のしこりが先祖代々語り継がれ、近隣の自治体や集落同士が今なお犬猿の仲で、市町村合併が円滑に進まない一因になっているケースもあるようです。
しかし一方、河川の流域圏は、水運によって遠い昔から地域同士の強い繋がりを持ち、共通の文化を形成してきたという側面もあり、現代においても流域圏を一体的な生活圏としてとして注目し、計画の基礎単位と捉える考え方もあります。
川と水の問題は根が深く、重く難しいものがありそうですが、過去のしがらみは「水に流し」、「水魚の交わり」の地域連携を目指したいものです。
Win-Winの関係構築こそ、1+1の地域力を2以上のものに高め、グローバルな競争社会を生き抜くための重要なポイントではないでしょうか?
(文責:小町谷信彦)
2020年9月第1号 No.84号