岩保木水門(いわぼっきすいもん)
~湿原を見渡す治水の「城門」
 文・写真 秋野禎木

公開

 人々の歴史は、一面から見れば水との共生の道を探り続けてきた歴史であろう。
川から大きな恵みを受けながら、それがひとたび氾濫すれば様々なものが濁流にのみ込まれ、押し流されてゆく。原始の姿をとどめる釧路湿原を背にした釧路市もまた、蛇行して流れ下る釧路川の氾濫で、幾度となく苦難に見舞われてきた。特に1920(大正9)年8月の氾濫では市街地は1週間にわたって濁水に覆われていたという。
 道東の拠点都市を襲ったこの時の大水害を機に、釧路川を改修して市街地の手前から流路を西側に変える新水路(現在の新釧路川)の開削が始まる。泥炭湿地に苦戦しながらも最新鋭の土木機材を投入し、延長約11㌔の新水路は10年をかけて1931(昭和6)年に完成する。これに伴って、もともとの釧路川との分岐点に建設されたのが釧路町の岩保木水門である。

 当初この水門は、その開閉で釧路川への流量を調整しながら木材の流送や舟の運行に使い、洪水時や結氷期などには門を閉じて流入を防ぐことが想定されていたという。
 幅20㍍、高さ5㍍。鉄筋コンクリートの3本の柱が逞しい。中央の柱に刻まれた「岩保木水門」の文字には、完成時の高揚感が漂っているようにも感じられる。
 鉄製の門扉を動かす手動式の巻揚げ機が格納された切妻屋根の木造の上屋は、広大な釧路湿原を見渡し、水の襲来から釧路の人々を守る「城門」の佇まいだ。この上屋から望む阿寒の山々を、往時の人々はどれほどの感慨をもって目にしたことだろう。通水を祝う式典ではコイやウナギが記念放流されたというのも驚きだ。

 湿原の端に新しい景観をもたらした水門は、しかし、計画されたような機能は果たさなかった。このころ、水門の東側に釧網線が開通し、物資の輸送の主役が舟から鉄路に代わったうえ、下流への水運も出来たばかりの新水路が使われ始めたからだ。10年という歳月の間に社会環境が変わり、岩保木水門は稼働しないまま、やがて「開かずの水門」と呼ばれるようになる。1985(昭和60)年には、すぐ側に建設された新しい水門が流量調整を担うことになり、旧水門はその役割を完全に終えるという命運をたどった。
 それでもこの水門は解体されることなく、タンチョウが舞う湿原の一端で厳然とした存在感を放っている。間近にはカヌーポートもあり、蛇行する釧路川を下ってきた人々もこの遺構と出会うことになる。
 計画通りにはならなかったが、この「城門」がたどった時間を遡れば、長くこの地で繰り広げられた水との共生を願う先人たちの苦闘の姿が見えてくる。完成から92年。時を重ねることでのみ培われる気配を漂わせた岩保木水門は、歴史の確かな記念碑である。

<交通アクセス>

【車】JR釧路駅から約30分(15㎞)

 

文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)

元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身

水門とは

 河川や水路を横断して設けられる、用水の取水や内水の排除を目的とした構造物です。
 広い意味では、樋門(ひもん)・樋管(ひかん)、堰、伏越(ふせごし)、掛樋(かけとい)、閘門(こうもん)等も一般的に水門と呼ばれることがあります。

【樋門・樋管】 狭義の水門と外観は似ていますが、大きな違いは規模が小さく、水を排出する水路が堤防に埋め込まれている点です。
        比較的大きいものを樋門、小さいものを樋管といい、樋菅は水路の断面が円形という点が特徴です。

【堰】 水門は、通常ゲートを開けた状態で、洪水時にはゲートを閉めて逆流を防止します。
    一方、堰(可動堰)は、通常時はゲートの開き方で水路に流す水量を調整しますが、洪水時にはゲートを全開にして水を下流に流し、洪水を防ぎます。

【伏越】 川と川や水路が交差する地点に設けられ、川の下を潜って横断する水路トンネル(逆サイフォン)です。 

【掛樋】 伏越とは逆に川の上を跨いで横断する構造物で、現代の水路橋がこれに該当します。