漂泊の歌人・石川啄木が小樽に足を踏み入れたのは1907(明治40)年の秋のこと。当時、この港湾都市は日清・日露の戦勝で活気づき、海運業者の重厚な社屋や石造りの倉庫群が続々と姿を現していた。国内初の外洋防波堤(北防波堤)の完成も間近で、啄木は勤め始めた小樽日報の創刊号に街の印象を書いている。
「小樽に来て初めて真に新開地的な(略)男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である」
5カ月ほど前に郷里の岩手・渋民村を離れ、知人を頼って滞在した函館、札幌とは大きく異なる躍動感。急激な発展で市街地が手狭になると、尾根を大規模に開削して平坦地にするという猛烈な開発も進んでいた。啄木は続ける。「小樽の人の歩くのは歩くのではない、突貫するのである」。「突貫」という言葉に、往時の街の勢いが見える。
市街を流れる勝納川(かつないがわ)の上流に道内初となる水道専用の奥沢ダムの建設が決まったのも、この年だった。道内最大の9万人超に膨らんだ住民の飲料水や急増する船舶の給水需要に対処するため、「近代水道の父」といわれる中島鋭治工学博士の指導で建設が始まるのである。6年9カ月の歳月を経て完成したダムは堤高28・15㍍。清流を溜めて浄水場に導き、水は61㌔に及ぶ水道管を通って人々を潤した。
ダムの側には、溢れ出るなどした水を川に戻す「階段式溢流路(いつりゅうろ)」もつくられた。21㍍の高低差に10段の水溜式の階段を設け、巧みに水の勢いと濁りを制御する施設で、こちらは景観の面からも長く市民を潤すことになる。