旭橋
「時代を映して厳然と」
 文 合田一道 写真 佐々木育弥

公開

 旭川のシンボルは、と問われたら、旭川市民なら誰もが「旭橋」と答えるだろう。旭橋はそれほど地域に愛されている存在なのである。
 旭川の町には石狩川、牛朱別川、忠別川、美瑛川など160以上の河川が流れていて、上空から眺めると、太い川筋が何本も延びているのがわかる。
 明治23年(1890)、旭川村(現東旭川地区)、永山村、神居村の三村が置かれ、旭川村と永山村にそれぞれ屯田兵400戸が家族連れで入植した。これが開拓の始まりである。以来、一般の入植者が急増していった。

 しかし “川の町” ゆえに交通は渡船に頼らねばならず、最初に近文原野に入植した人たちが石狩川に長さ50間(約90㍍)の土橋を架けた。だがすぐ壊れるため道庁は明治27年(1894)、「鷹栖橋」という木橋を架ける。旭橋の原型である。
 明治33年(1900)、旭川村が町に昇格し、その翌年、陸軍第七師団が札幌から旭川へ移住した。駅前と師団を結ぶ交通網の整備が急がれ、明治37年(1904年)、三年がかりで初代の旭橋が完成した。長さ104㍍、幅5.5㍍。アメリカから輸入した鋼鉄を用いた道内2番目の鋼道路橋だった。

 この旭橋の建設工事中に、旭川町のある家庭に男子が誕生した。村中孝次といい、この33年後に世間を驚かせる事件を引き起こすのである。
旭川の町は着実に発展し、駅前と師団司令部を結ぶ「師団通り」を旅客自動車が走り出した。大正11年(1922)には市に昇格し、旭川師範学校(北海道教育大学旭川校)が開校する。
 大正最後の年である大正15年(1926)、旭川でもう一人の男子が生まれた。後に旭川市長となる五十嵐広三である。

 昭和に入り、師団通り沿いにすずらん灯が設置され、市内電車が開通し、休日になると大勢の軍人が旭橋を越えて町へ町へと繰り出した。華やかな音楽大行進が行われ、“軍都旭川” の色彩が濃くなった。

 牛朱別川の切替工事に伴い、新しい「旭橋」の建設が3年がかりで進められ、昭和7年(1932)11月、完成した。北海道で初めてのブレースト・リブ・バランスド・タイド・アーチ橋という型式のなだらかなアーチの鉄橋で、長さ224.9㍍、幅18.3㍍。橋の正面には「誠」の文字を中心に、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の文字が書かれた額が掲げられた。
 旭橋は旭川人の誇りとなった。電車が橋の上を通過する時、車掌が「気をつけっ」と号令をかける。乗客はそれに従って身をただすのだ。旭橋が畏敬の存在になったのである。
 このころ村中孝次は、陸軍士官学校を卒業して少尉になり、旭川の歩兵第27連隊勤務になった。間もなく陸軍大学へ進学し、将来を嘱望される身である。村中はこの橋を渡って何度か実家に赴いているが、そのたびに橋を仰ぎ見て、軍人としての決意をみなぎらせたのであろう。

(出典:北海道開発局旭川開発建設部HP「旭橋のあゆみ」)

 この4年後の昭和11年(1936)2月26日、村中ら陸軍青年将校らによる「2・26事件」が起こる。腐敗しきった陸軍上層部を抹殺しようとするこのクーデターは失敗し、村中らは銃殺刑に。現存する「遺書」に故郷を偲ぶ一文も見える。この時、小学生だった五十嵐広三はどんな感想を抱いたのであろうか。
 終戦になり、軍部が消滅して「師団通り」の名は消え、旭橋から掲額が取り外された。代わって登場したのが「平和通り」である。市長になった五十嵐広三は、この通りを平和の象徴にしようと、道路から自動車を閉め出し、人々が自由に歩ける「平和通買物公園」にしたのである。昭和38年(1963)のこと。他都市は目を丸くして驚いた。

 筆者が旭川で暮らしたのは半世紀も前の僅かな期間だが、歴史的に戦争と平和が混在するこの公園通りを、旭橋まで何度も歩いた。いまも旭川を訪れると、なぜか足が旭橋に向かい、厳然として揺るがぬその姿に心なごませるのである。
 でも誕生からすでに1世紀近く、旭橋は変遷する世情に何かを感じているはず、それを聴いてみたい。ふと、そんなことを思ってみたりする。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。