創成橋
[創成橋とリラ」
 文 谷村志穂 写真 津村明彦 

公開

 人間が橋を架ける、という行為はどこか聖なるものだと感じる。
 こちらから向こう、向こうからこちらへ。橋は渡し、つなぎ、結ぶ。両岸を行き交う人々を見つめてきた場所だ。
 橋の発展も成熟度は、地域や民族ごとに、ずいぶん異なるようだが、おそらく始まりはどこの地においても、偶然の倒木が橋になり、人はそれに似た丸太を渡して橋にした、そんなところにあるのではなかろうか。
 やがて人間の技術が磨かれていき、本格的な土木技術が開発されていくが、それ以前には、日本でも諸外国でも、僧侶や聖職者たちが力を尽くして橋らしいものを架けた、という記述を折々目にする。それにより拡大したかった勢力もあろうが、橋にはそれぞれ、人の根源的な希求が託されてきたように思う。
 姿のいい古い橋に立つと、橋はその場の歴史を伝えてきて、想像力が喚起される。
 だからなのか、時折訪ねたくなる。
 札幌では、都市部で時間ができると、創成橋に立ち寄るようになったのは十年ほど前だったろうか。ある女性が、創成橋のほとりに広がる親水公園に連れて行ってくれて、こう言った。
「札幌のリラは大通公園が有名ですが、実はここにもたくさんの珍しい種類のリラも植えられているんです」
 リラ、ライラック、ちょうど札幌の空気がまだ少し冷えたままの五月、花の見頃の時期だった。
 札幌の人口は、二百万人を目前にやや減少傾向となったようだが、今なお中心部の開発は目まぐるしく、いつもどこかで、巨きなビルの建設が乾いた音を立てて進められている。

 日々発展を続けるこの街の中心部にあり、行き交う車の最も多い場所にありながら、創成橋とそのほとりから南北に広がる親水公園は、実にひっそりと存在しているのがどこか不思議に思えた。
 この橋の歴史については後述することにして、何しろわずか6.9メートルの橋である。豊平川の支流である鴨々川から茨戸までの創成川にかかる五十以上の橋の中でも、その橋長は下から数えて三番目にあたるそうだ。つまり、今となっては、都心の喧騒に紛れてしまいそうな小さな橋なのだが、この橋が見てきたのは札幌の開拓の歴史そのものだといっていい。
 その歴史を伝えようと、橋の周囲には銅像や記念碑が立ち並び、逆にそれが生きている橋というよりは、遺跡のような印象を伝えているのかもしれない。
 私たちは忘れがちだが、北海道ではじめに拓けたのは札幌ではなく、開港都市函館である。だが当時の幕府は、より平坦で広大な石狩平野に北海道を拓くための可能性を見た。函館からは赤松街道を通って、幕命を受けた開墾の民たちが札幌までやってきた。
 そのときはまだ、石狩平野のいずこにも「創成川」にあたる水の流れは存在しなかった。幕命を受けてやってきた大友亀太郎という人物が、開墾のために約二十戸の移殖者たちを連れだって乗り込んだ。移殖者たちを、年々増やしていく計画があった。はじめは、彼らの飲用水や生活用水のための水が必要で、水路を掘った。それは堀でもなく、溝のようでしかなかったと述懐する人もあるようだ。当然、橋などはまだ必要なく、馬は飛び越えることができ、人も丸太をかけて渡ることができた。
 しかし明治の新政府が立ち上がると、本格的な北海道開拓が始まる。開拓使という官庁が設置され、はじめに判官としてやってきたのは島義勇だった。島は、当初は小樽に仮庁舎を置いたが、北海道開拓の壮大な構想を練り、その予算組みが政府の度肝を抜き、長官と対立。判官は明治四年に島から岩村通俊へと交代する。岩村は島の構想を引き継ぎ、本庁を札幌に移し、櫓を立てて開拓使らの官舎を建設する。当時のセピア色の貴重な写真が残っているが、官舎の手前に橋が見える。橋といっても、丸太を組んで板を敷き詰めた、京都の鴨川沿いの床のように見える橋だ。
 実はこの橋が、現在の創成橋の初代に当たる。明治二年には完成していたようである。
 橋が必要であった。
 つまり、大友亀太郎が掘った「大友堀」がもとになり、開拓使が入って後は、大規模な土木工事により、整備拡張されていったのだ。他にも幾つか存在した他の堀も順に整えられていき、一本の川につながり、豊かな水の流れが形成され、水運も可能にしていった。川の両岸には、水運を用いて運ばれた物資が売買される商店が立ち並ぶようになり、旅人の宿泊場もでき、民家も増えていく。
 「札幌」の建設は、まさにこの大友堀の両岸より立ち上げられることになったわけだ。
 明治二年、札幌建設の構想を練った当時の島義勇判官の頃にはまだ丸太組みの板敷の橋であったが、明治四年、岩村判官の時期には川幅の拡張により木橋となる。川の名は幾つかの改名を経て、明治七年には創成川に。橋の名も創成橋となったようだ。その名の元になる言葉を用いたのは岩村判官であるらしく、北海道を去るときに残した詩に「誰ぞや基業を開くは/馬を駐む創成橋/去年狐兎の窟/目を挙げれば人煙饒かなり」という一節に「創成橋」があることを、郷土史研究家の三浦宏さんが随筆で挙げられている。ゆえに、アイヌ民族がつけた豊かな地理にちなんだ地名が多い北海道において、人工の川につけられた創成という言葉には、始まりの苦労と未来への期待が寄せられているように見える。
 少し話が逸れるが、北方の開拓のために明治二年から明治十五年までの間存在した官庁である開拓使において、長官の部下にあたるのが判官である。任命を受けて、また免官となるまでの日々を彼らはどんな思いで過ごしたのか。岩村の詩は、元々は漢詩であり、北海道開拓の礎を築いた当時の判官の知性を垣間見る。

 その後の創成橋は、困難な開拓とともに発展していく札幌の象徴のように作り替えられていく。
 木橋が、現在の石造の橋となったのは明治四十三年。前年に豊平川の氾濫のあおりを受けて、橋は流されてしまった。急遽建設された石造のアーチ状の橋桁が印象的な現在の創成橋の原型が、ここで完成する。欄干は木製である。札幌の街によく似合うモダンなアーチの下部に対し、突然古めかしい擬宝珠が高欄に並ぶが、これは橋に格式を与えているとのこと。
 この堂々たる橋の上は、人も馬車も荷馬車も通った。大正時代には市電さえ通ったというから、驚いてしまう。
 美しい橋の落成に合わせてだったのか、すぐそばの南一条派出所は、元来は木造であったが、翌明治四十四年、地元の篤志家の寄付により、手積み赤煉瓦の小さな洋館のような建物となり、以後、辺りを彩った。現在は開拓の村に移築され、当時の警察官の白い制服を着た蝋人形とともに展示されている。
 この創成橋は、東京の日本橋より一年早くにできた橋だというが、アーチの形といい、擬宝珠をつけた欄干といい、何より周辺を行き交う人々の活気を想像すると、当時の東京の日本橋ともよく似ていたことを伝えてくる。北海道の明治期は、開拓の労苦に覆われて見えるが、その起点となった創成橋の周辺には、皆の憧れの風景があったろうか。
 橋は後に、擬宝珠が紛失をしたり、また復旧されたり、老朽化に伴う手入れも必要となったが、市民の思いによって、この橋はデザインを変えずに復元され続けてきた。

 橋が明治期の風情のまま残っており、すぐ近くには、この橋と同じように、同じ色合いをした石造倉を抱える秋野総本店薬局が、動かずある。また、第二次世界大戦も共にくぐり抜けた二条市場もほど近い。
 創成橋はひっそりしている、と書いたが、実は平成二十二年には、橋の下を流れる川にトンネルが構築されて、かつては分断されていた市内の北アンダーパスと南アンダーパスの連続化のための中心点ともなった。創成川や創成橋は、再び街の発展のための、最先端技術の見せ場を作ったのだ。
 けれど、そうであっても今はなぜか、そこだけ時間が止まってしまったようにすら感じさせる。ひとまず街の発展を忘れて、ちょっと休んでいこうか、そんな気持ちにさせられる。
 創成橋は、札幌の街が出来上がっていき、どんどん人が流れ込んでくるのを、そこでじっと見つめてきた優しい老人のよう。今は街の中心部は少しズレたが、中心より半歩引いたような形で、行き交う人々を、そして街の更新を見守っているようにも思える。
 その橋のたもとに広がる水辺にリラが植えられた。
 札幌はやはり素敵な街だ。

谷村 志穂 (たにむら しほ)
作 家

<略歴>
1962 年 10 月 29 日北海道札幌市生まれ。
北海道大学農学部にて応用動物学を専攻し、修了。
1990 年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』(角川文庫)がベストセラーとなる。
1991 年に処女小説『アクアリウムの鯨』(八曜社/角川文庫)を刊行し、自然、旅、性などの題材をモチーフに数々の長編・短編小説を執筆。 紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。
2003 年南北海道を舞台に描いた『海猫』(新潮社)が第 10 回島清恋愛文学賞を受賞。
現在、北海道観光大使・函館観光大使・七飯町観光大使を務める。
代表作に『黒髪』(講談社)、『余命』(新潮社)、『尋ね人』(新潮社)、『移植医たち』(新潮社) など。
道南を舞台に他にも『大沼ワルツ』(小学館)、『セバット・ソング』(潮出版)などがある。
作家としての活動の傍ら豊富な取材実績を活かして旅番組などの出演も多数。

写真
津村明彦

1962年北海道旭川市生まれ。
20数年間の営業写真館勤務を経て、現在フリーランスカメラマンとして婚礼写真を中心とした撮影に従事
併せて北海道の自然の中に美しく佇むポートレート作品の創作活動を行っている。
「ホテルニューオータニ札幌」写真室室長10年歴任、ロチェスター工科大学 デジタルイメージングセミナー修了。
江別市在住