神居大橋
~伝説の峡谷の白い吊橋
  文・写真 秋野禎木

 アイヌ民族の伝説がつたわる神居古潭(旭川市)の峡谷に、白い吊橋が架かっている。森の緑と深いコントラストを織りなすこの木橋が、見る者の目に鮮やかな残像を刻みつける神居大橋である。
 橋の下を流れるのは石狩川。大雪山系に源を発し、上川盆地を潤して水が旅を続ける国内有数の大河は、川幅の狭い神居古潭に差し掛かると流れが勢いを増し、時に荒々しい激流となる。

 交通の手段が舟しかなかった遠い昔、一帯は非常に危険な難所で、しばしば舟が濁流にのみ込まれたことから「魔神」がいると怖れられたのだという。橋のそばの説明板には、アイヌの人々を滅ぼそうとしたその魔神を、英雄神が成敗した地であるという伝説も紹介されている。
 この峡谷に鉄路が敷設されたのは明治の中期。右岸の駅と対岸との行き来のために簡素な仮橋が出来たのが、この橋の歴史の始まりだ。激流を怖れることなく川を越えることを可能にした橋は、当時の人々には、まさに「英雄神」だっただろう。
一帯が景勝地として知られるようになると、1925(大正14)年に有志の寄付も集めて「神龍橋」と言われた吊橋が造られた、と旭川市史にある。現在の形になるのは1938(昭和13)年のこと。木の部材を三角に組んで強度を高める木製補剛トラス構造の吊橋で、長さ約80㍍、幅は2・3㍍。その後、当初の形式を継承しながら幾度かの改修が繰り返されている。

 国道12号側から橋を渡れば、かつて人々が集った旧神居古潭駅の瀟洒な駅舎が復元されている。

 明治期の西洋建築の特徴を残す駅舎のホームには、紅葉の秋、遥々遠くから山間の景勝地を訪ねてきた人々が降り立ち、そして吊橋を渡ったことだろう。多くの人生が交差した駅舎は1969(昭和44)年に廃駅となり、かつての時代の営みも、今は遠い過去の時間の中に埋もれている。
 魔神や英雄神の伝説をつたえる奇岩が並ぶ風景の中に、凛としてある白い吊橋。初代の仮橋から次代の橋に架け替わり、改修が重ねられた景勝地の名橋は、その橋を踏みしめた無数の人々とともに時間を重ねてきた。過ぎた時代を透視させるかのような吊橋を見つめながら、風景にも年輪があるのではないか、そんな思いにとらわれた。

<交通アクセス> 
【バス】JR旭川駅から北海道中央バス 深川行または芦別行乗車約30分 神居古潭下車

文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)

元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身

一時代を画した木造トラス橋

 北海道の橋の歴史は、豊平橋の変遷と重なりますが、明治の初めから中期にかけて多用されたのが木造トラス橋でした。
初代・豊平橋は、1871(明治4)年に作られた丸太を並べた程度の二連の丸木橋でしたが、わずかひと月足らずで雪解け水により流され、その後も木橋が架け替えられましたが、その都度流されました。
そこで開拓使は、N・W・ホルト(開拓使本庁舎等の設計者)に設計を依頼し、1875(明治8)年に日本で最初の洋式橋梁として完成したのが木造トラスの豊平橋でした。
このアメリカの大鉄道建設期の遺産とも言える最新土木技術を駆使し、木・鉄混合のトラスを使用した橋は、弓型補強材を持つ約63mのハウトラスと約32mのハウトラスを組み合わせた2連の橋でした。そして、この橋は当時の人々に永久に大丈夫との期待を抱かせましたが、その思いも虚しく、1877(明治10)年の洪水で破壊されてしまいました。

 次に帰国したホルトに代わって設計を託されたのは、P・W・ホイラー(クラーク博士の後の札幌農学校二代目教頭)で、川の流れを一本にまとめた上で、橋長約63mの一連の弓型補強材を持つハウトラス橋を1878(明治11)年に完成させました。以降、1908(明治31)年に道庁技師岡崎文吉により北海道で最初の鉄橋が完成するまで、木造トラス橋の時代が続いたのです。

(参考資料:さっぽろ文庫8「札幌の橋」)

ホイーラー設計の豊平橋(北海道大学図書館蔵)