旧舞鶴橋
~平原の時代史伝えるアーチ橋
  文・写真 秋野禎木

 朱から赤へと染まった夕暮れ時の旧舞鶴橋は、幻想的な美しさを湛えていた。橋は刻々と色合いを変え、その赤も次第に深く濃く陰ってゆく。やがて闇に沈むまでの情景は、どこか物悲しげで、暗示的でさえあった。
 長沼町の「ながぬまコミュニティ公園」を訪ね、夕陽とその橋が織りなすドラマに目を奪われたのは4月中旬のこと。冴え冴えとした早春の冷気が、水面に映るアーチ型の名橋の姿をも鮮やかに引き立てていた。
 舞鶴橋は、元々は恵庭市との境界付近の舞鶴地区を流れる千歳川に架けられていた。最初の木橋は明治30年代に完成し、大正年間に2度架け替えられたが、氾濫を繰り返してきた川の屈曲部の切替工事が1932(昭和7)年に始まったことで、蛇行するそれまでの流路は廃川になり、橋もまた役割を終えることになった。
 しかし、1936(昭和11)年秋の陸軍特別大演習でこの地域一帯が演習区域に組み込まれることが決まると、重車両など軍隊輸送に耐える橋が必要になり、新しい鋼橋の建設計画が急速に進んだという。
起工は昭和11年4月。半年後の大演習に間に合わせるため昼夜兼行で工事が行われ、9月20日に竣工した。橋長42・9㍍、幅員5・8㍍、アーチの高さは6・42㍍。橋にかかる力を桁で支え、アーチで強度を高めるランガーガーダー式。この構造の橋としては道内で最も古いものだという。
 昭和11年といえば、日本を揺るがした2・26事件の年である。このクーデター未遂事件を機に軍国主義体制が強まり、翌年の盧溝橋事件、さらには太平洋戦争へと突き進んでいく。そんな時代背景の中で平原に威容を見せたのが、このアーチ橋だった。

 半世紀余り後に新たな橋へと役目を引き継いだ際、町のシンボル的存在だった橋を残そうという住民が保存運動を展開し、1995(平成7)年に現在の公園に移設、復元された。
 橋の名にもなった「舞鶴」という地区名は、古くはその周辺が湿地帯で、タンチョウが生息していたことに由来するという。明治期の開拓などで一帯から長く姿を消していたタンチョウは数年前から姿を見せるようになり、2020(令和2)年には営巣も確認された。
 かつて陸軍の重車両が轟音を響かせ、今は人々が憩う旧舞鶴橋の夕景の中に、タンチョウが優美な舞を見せる日が来るのは、そう遠いことではないのかもしれない。

<交通アクセス> ながぬまコミュニティ公園内(夕張郡長沼町)
【マイカー】 札幌から国道12号、国道274号、道道札夕線経由で約50分
【バス】 JR北広島駅からJR北海道バス「ながぬま温泉行」約33分、「ながぬま温泉」下車、徒歩3分
(参考)「交通のご案内」

文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)

元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身

アーチ橋

 アーチ橋は、アーチ状(上方に弓のように反った曲線)の構造物に鉛直に加わる力(荷重)がアーチの方向の力(圧縮力)に変換され、最終的にアーチ両端の橋脚が荷重を支えるというアーチの力学的特性を活かした橋です。
その歴史は古く、古代ローマでは紀元前1世紀頃から石のアーチ橋が多数建設され、現存する水道橋のポン・デュ・ガールは代表的なものです。
日本でも江戸時代にその技術が長崎に伝わり、1643年に架けられた眼鏡橋を端緒に、九州各地で石造りアーチ橋が架けられたほか、1673年に日本独自の技術による木造のアーチ橋、錦帯橋(広島県岩国市)が架けられました。そして、時代とともに、素材は石や木から鋼とコンクリートに変わり、現代では様々な構造型式のアーチ橋が架けられています。

<アーチ橋の種類>
アーチ橋には、アーチ部材だけで荷重を受け、路面部材では荷重を受けない狭義のアーチ橋と路面部材も荷重を分担する補剛アーチ橋(ローゼ橋、ニールセンローゼ橋、ランガー橋、逆ランガー橋)があります。また、通行(路面)の位置により上路アーチ・下路アーチ・中路アーチに分類されます。

<アーチ橋の路面位置による分類>

(出典:Wikipedia「アーチ橋」)

<補剛アーチ橋の種類>