今から450年前の1775年、ポルトガルの西南西沖、約200キロの海底で起きた巨大地震(推定マグニチュード8.5~9.0)は、首都リスボンに壊滅的な被害をもたらし、当時、世界の海を股にかけて隆盛を誇っていたポルトガル帝国の衰退の引き金となりました。この大地震は、正確な被害実態は不明ですが、6万人~9万人ともされる死者は、当時のリスボンの人口の3分の1から4分の1と推定されています。
この地震によりポルトガルは、当時世界の覇権を競っていたイギリス、オランダ、スペイン等の諸国とのし烈な競争で遅れを取り、金の卵だった植民地ブラジルの独立という痛手も重なり、衰退の道をたどったのです。
この大地震、日本ではあまり知られていませんが、ヨーロッパではフランス革命と並ぶ18世紀の大事件とされています。著名な哲学者ヴォルテールとルソー、カントがこの地震を巡って起こした哲学的論争が当時の啓蒙思想に大きな影響を与え、中世の世界観を変えたと考えられているのです。
リスボン大地震には、このように罪だけではなく功もあり、破壊されたリスボンの復興が、ポルトガルの中世都市から啓蒙的な近代的国家への脱皮の契機となったともされています。
その立役者が、ポルトガル国王ジョゼから宰相に抜擢され、災害復旧の指揮を取ることになったポンバル(当時は外務・軍事大臣)でした。
ポンバルは、死体の処理と疫病の予防、生存者の治療と援助、軍隊による治安の維持、消防隊の組織化、物価の据え置き、乱開発の防止、と矢継ぎ早に的確な応急対策を実施し、この非常事態を鎮静化したのです。そして列強諸国との競争への復帰を目指して、早期復興を推進しました。
復興の手始めに、ポンバルは、国内各地の地震、津波、火災の発生状況・被害状況と救援活動の実態を調査し、対策に活用したのですが、これは画期的なことでした。このような科学的な調査・分析はこれまでに行われたことがなく、近代地震学の礎を築いたと高く評価されています。
さらにボンバルは、リスボン再建の目標を「リスボン地震の再発に備えて、人命と建物の被害を少なくする安全な都市としての再建」としました。そして、耐震と耐火のために、碁盤目状の幅の広い街路、建物の高層化の抑制、防火壁の設置、地盤の強化、排水溝と公園の整備を進めたほか、石造りの壁に弾性のある木の枠組みを埋め込むといった工夫やコスト縮減・早期完成を目指したプレハブ工法の採用など、斬新な手法を取り入れたのでした。
これらの施策、例えば、建物の高さ規制や広幅員街路・公園の整備、そしてプレハブ工法による建設資材の画一化と標準化は、建物のデザインや都市景観の統一という建築・都市計画の新しい視点を拓くことにもなりました。
余談ですが、この大地震が起きた11月1日はカトリックの「諸聖人の日」で、信徒が教会に集まり神に祈りを捧げている丁度その時に地震が起きたそうです。それで、燭台に灯されたローソクの火が倒れて燃え上がり、折りからの北東の風が火を煽り、町を焼き尽くしたとのこと。市内は地震と津波と火災のトリプル災害でその85%が壊滅しました。そして、敬虔なカトリックの国であるポルトガルでは、この未曽有の大惨事は「神の怒りによる罰」と考えられ、「なぜ神の怒りに触れたか?」という疑問が、その後に宗教的、哲学的大論争を招く土台になったとされています。
「災い転じて福となす」という諺を文字通り実践したポンパレの功績は、災害時及び復興期の指導者の重要性を明らかにしています。しかしながら、転んでもただでは起きないポンバルの的確な計画と実行力をもってしても、時代の趨勢には勝てず、ポルトガルはヨーロッパの覇者から三流国への転落を余儀なくされました。
今は昔、日本も「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられた時代がありました。ポルトガルの教訓を忘れずに、災害大国の宿命を何とか跳ね返していきたいものです!
2025年8月第1号 No.168
(文責:小町谷信彦)