防災の話題10 「災害が変えた日本史~豊臣秀吉vs 徳川家康」

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 日本は、世界的に見ても災害の多い国ですが、とりわけ地震は、有史以来、繰り返され発生し、わが国の社会と歴史に多大な影響を及ぼしてきました。というのも、地球を覆う十数枚のプレート(岩盤)のうちの四つが接するという世界屈指の地震危険地帯に日本列島が位置しているのですから、これも致し方ないことです。
 それで、歴史に本来「もし」はありえませんが、仮に〇〇地震が起きなかったとしたら、と考えてみると、教科書で学んだ日本史とは全く別の歴史が誕生して、これはこれで楽しめます。
 例えば、国際日本文化研究センターの磯田道史教授は、安土桃山時代に天正地震(1586年)と伏見地震(1596年)が起きなければ、江戸時代はなかったという可能性を示唆しています。(注1)
 天正地震が起きたのは、豊臣秀吉が本能寺の変で織田信長を討った主君の仇・明智光秀を滅ぼしてから4年後、秀吉が天下統一の途上で、徳川家康と覇権を争っていた時代でした。秀吉は家康との決戦の準備を着々と進め、家康追討を公言。家康に使者を送り、自分に従うよう促します。しかし、家康はそれを拒否、もはや決戦は必至、そんな緊迫した状況でした。そこに突然マグニチュード8クラスの激震が、現在の岐阜県周辺を襲ったのです。家康討伐の前線基地の長浜城(現・滋賀県長浜市)は壊滅、近くの坂本城にいた秀吉も命からがら大坂に逃げ帰ります。決戦どころではなくなったのです。
 もし地震が起きず、両者が戦っていたなら、圧倒的優勢を誇る秀吉軍に家康は討ち取られ、後の江戸幕府は誕生しなかったかもしれません。
 さらにその十年後、今度は京都でマグニチュード7.5の大地震・伏見地震が起きます。太閤秀吉の居城・伏見城も多大な被害を被ったものの秀吉は九死に一生を得ます。京都は人口のほぼ1割に相当する4万5千人もの死者というので相当な大地震です。そして折り悪く、秀吉は全国の大名を動員して、海を越えて朝鮮と戦っている最中。秀吉は壊れた伏見城をさらに豪華に再建せよ、と厳命を発しますが、それは朝鮮出兵で疲れ、困窮していた大名達の不満に火を注ぎ、ダメ押しは、朝鮮への再出兵命令でした。諸大名の心は豊臣から徳川に移り、その後の展開はご存知の通りです。
 もし伏見地震がこの微妙なタイミングで起きなければ、ここまで急に潮目が変わり、秀吉亡き後、豊臣政権があっという間に滅ぼされるということも避けられたかもしれません。

 どうやら徳川家康は、天正地震で命拾いをし、伏見地震とその長寿のお陰で、念願の天下の覇者の座を勝ち得たと言えそうです。しかし家康は単に運に恵まれたというだけの人物ではありません。伏見地震以後、勢いが衰えた秀吉を即座に攻めることもできたと思いますが、リスクを伴うその選択を避け、年長の秀吉が死ぬのを辛抱強く待ち、満を持して天下を手中に収めました。
 一方、秀吉にとって、2回の地震は確かに不運でしたが、その後の失政は自ら招いたオウンゴール、自業自得と言えそうです。
 とは言え、徳川家にとって地震や天災はいつも味方というわけではなかったようです。幕末の1854年に続けざまに起きた安政東海地震と安政南海地震、1856年の江戸暴風雨は、徳川幕府に大きなダメージを与え、討幕運動によって解体に向かう引き金となりました。

 今も昔も非常事態への対処の良否が、為政者の信任を大きく左右すると言えそうです。
 ことの大小に拘わらず、危機管理は大事!
 私達も身近な災害に、日頃から十分に備えておきたいものです!

(注1) 参考資料:「天災から日本史を読み直す」 磯田道史著 中公新書

2025年6月第2号 No.166
(文責:小町谷信彦)