永山在兼(ながやまありかね)
~大自然を車で旅する時代へ。観光と道路を結びつけた先駆者~第1回  文・フリーライター 柴田美幸
 

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 現代の私たちは、当たり前のように車で観光地をめぐっている。とくに、広大な北海道観光に車は必須だ。このような観光スタイルは、昭和に入り、戦後に自動車が一般人に普及し始めモータリゼーションの時代を迎えてからのこと。それ以前は、自家用車を持つ人などほとんどいなかった。記録によると、昭和初期の北海道での所有数は1万人あたり3〜4台とあり、とても庶民には手の届かないものだったとわかる。道路も、石炭や硫黄といった、資源の輸送のための鉄道の敷設にともない建設されることが多かった。鉄道の駅を中心に、馬車や自動車で人と物を運送するための道路づくりが進められたのだ。
 そんな時代に、自動車による観光を予見していた人物がいる。当時、生活と産業の運送用としてしか見られていなかった道路を、観光を目的としたドライブルートとして捉え直したのだ。その人物とは、土木技術者の永山在兼(ありかね)である。戦前の1930(昭和5)年に、「阿寒横断道路」を中心とした広域観光道路整備を行った立役者だ。なぜ、永山はこのような時代に先駆けた構想を抱き、実現させたのだろうか。

(出典:弟子屈町100年記念「風・人・大地」)

貧しくも豊かだった子ども時代
 永山在兼は、明治22(1889)年、鹿児島県東市来(ひがしいちき)町・現在の日置市に生まれた。永山家は鹿児島藩(薩摩藩とも言う)の外城(とじょう:鹿児島藩の地方の拠点)を統治する、郷士(ごうし)という重責を担っていた家柄だった。明治になり藩が廃止されて以降は、焼酎を製造し量り売りをして生計を立てた。幼くして亡くなった兄弟も含めて7男2女と子どもが多く、在兼は3男である。生活は苦しかったようで、尋常小学校に裸足で通い、寒い日のみ、わら草履をはいていたという。
 だが、永山の両親は愛情深く、教育熱心だった。お正月には、子どもたちみんなに新しい着物と下駄を用意してやることを欠かさなかった。そして当時、小学校に通うにも授業料が必要で、学校に行けない子どもも多かったが、苦しい家計のなかから授業料を工面していた。在兼は放課後に復習所(のち講道舎)というところでも勉強し、すぐ上の兄の在船からも面倒を見てもらっていた。復習所では学校の予習・復習のほか、武道や騎馬戦などの競技が行われ、心身鍛錬の場でもあったようだ。ちなみに、兄の在船は九州帝国大学医学部に進んで医師となる。
 永山は尋常小学校在学中の品行方正・成績優秀を認められ、卒業時には、賞として次の高等科1年の教科書を授与されている。そして高等小学校に進み、卒業後さらに中学受験(現在の高校受験)のための補習学校へ進学。県下有数の教師陣から英語などを学んだ。
 なんだか非の打ち所のない優等生のように思えるが、実際は少し違ったようだ。幼なじみなど永山を知る人によれば、鹿児島弁で「大胆なきかん坊」という意味の〝ぼっけもん〟という言葉で語られるように、性格はおとなしいが、ものごとにとらわれず豪快なところもあったという。後年ともに働いた人々は、一度言ったことは押し通す、気骨のある人だったと回想している。こうした性格が、のちに大きな仕事を成すことにもつながっていくのである。

北海道との不思議な縁に導かれて
 明治36(1903)年、入学した鹿児島中学校(現・県立鶴丸高等学校)は、永山の行く末を暗示するようなところだったと言える。入学前年まで校長だった岩崎行親(ゆきちか)は、札幌農学校の2期生だった。同期には新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三、そして北海道の土木のパイオニア・廣井勇(ひろい いさみ)がいた。さらに、永山が在学中の明治40(1907)年に校長となった岡元輔も札幌農学校出身だった。岡は3期生で、札幌に北海英語学校(現・北海高等学校)を設立したメンバーの一人でもある。
 鹿児島中学時代の永山は、寄宿舎暮らしで仲間と柴笛や薩摩琵琶の演奏を嗜み、剣道も強かったようだ。だが、岡校長の学問優先の学校改革により、すべて禁止されてしまった。岡が札幌農学校で身につけた、クラークの「ビー・ジェントルマン(紳士であれ)」の精神に基づいていたのだろうか。服装や持ち物などにも規律を設け、バンカラだった校風を一新した。

 この間に、永山には大変な出来事が起こる。明治38(1905)年16歳のとき、父・箭之助(やのすけ)が亡くなったのである。家計はますます苦しくなったが、母・ワサは懸命に働き学業を支えた。明治41(1908)年、永山は校名が改称されていた県立第一鹿児島中学校を卒業。そして、鹿児島の第七高等学校造士館に入学した。帝国大学(現・国立7大学)の予備門としてあり、卒業が難しい難関校として知られていた同校の校長は、奇遇にもあの岩崎行親だった。岩崎は全国から一流の教授陣を集め、東京の第一高等学校の教授をして「一高より粒がそろっている」と言わしめたという。七高での永山は、ボート部に所属して主将を務め、青春を謳歌した。
 しかし、卒業をひかえた永山に再び難題が立ちふさがる。金銭的に大学進学が困難だったのだ。志望していたのは東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)であり、多額の費用がかかる。さすがに母・ワサの頑張りだけでは無理な話だった。大学進学の決意を固めている永山を見て、ワサは資産家だった弟の上村平角に、学費を援助してくれるよう懇願する。すると、上村はこのように答えた。
「東京帝国大学に1回でパスしたら学費は出してやる」
 叔父から課された条件に永山は奮起する。そして大正元(1912)年、見事1回で合格し、念願の東京帝国大学入学を果たした。

七高時代の永山在兼(写真中央)(出典:北海道東部開発の先駆者 永山在兼顕彰誌)

 こうして土木工学科へ進むわけだが、実は、永山が在学していた期間と、廣井勇が東京帝国大学で教鞭をとっていた時期(1899〜1919年)は重なっている。永山は、廣井の土木工学の授業を受けていた可能性が高い。授業では、北海道での自身の仕事について話をすることもあったのだろうか。間接的に、永山も「廣井山脈」と呼ばれる、廣井が指導した門弟の一人と言えるかもしれない。
 中学から大学まで札幌農学校が輩出した人材のもとで学んだ永山は、不思議な縁に導かれ、卒業間もなく北海道へ渡るのである。

北にあった先人と先輩たちの足跡
 永山が北海道行きを決めたのには、さまざまな理由があったと思われる。北海道開拓使は、開拓長官となった黒田清隆を筆頭に、要職を旧鹿児島藩出身者が占めていた。開拓使のあとに置かれた北海道庁の長官や屯田兵の第7師団長を務めた、永山武四郎もその一人だ。そして、同じく鹿児島藩出身で同姓の永山弥一郎もいた。弥一郎は開拓使のもと屯田兵を率いる立場になりながらも、辞して西郷隆盛による西南戦争(1877年)に参加する。同じ薩摩人の武四郎と弥一郎は、政府軍と西郷軍に分かれ敵として戦った。結局、弥一郎は敗北を前に自刃(じじん)する。
 永山は、子どものころ父から西南戦争のことを聞かされており、とくに、弥一郎にシンパシーを持っていたらしい。後年、永山の長女・恵子が「三十余歳で世を去った永山弥一郎の果たされぬ夢が、同郷同姓の父に宿ったのかもしれぬ」と語っている。
 さらに直接的な理由として、2人の先輩の存在が考えられる。郷里の近所に住んでいた小学校時代の先輩・吉利智宏(よしとし ちこう)が、明治44(1911)年、道北の幌加内(ほろかない)に入植。豪雪地帯であり寒さ厳しいこの地域の発展のため、深川駅から幌加内に達する鉄道の敷設運動をたった一人で行っていた。吉利のことは、永山の耳にも入っていたに違いない。「自分も身につけた学問を生かし、新天地でなにかを成したい」と思ったのではないだろうか。吉利の鉄道院への請願は、地域の有志とともに10年続き、着工される。昭和に入り名寄まで開通し、深名線として1995年の廃線まで地域の足を支えることとなった。
 そしてもう一人が大学の先輩で、道庁の土木部長だった橋本正治だ。永山の能力を見込んで呼び寄せたとも言われており、橋本自身のちに鹿児島県知事となるような逸材だった。
 永山は、大学を卒業した大正4(1915)年、すぐに北海道土木部勤務北海道庁事業手として札幌土木派出所に勤務。そして大正7(1918)年、技師高等官となり、釧路土木派出所(のち釧路土木事務所に改称)に所長として着任する。永山の運命を変える大事業が、道東の地でいよいよ始まるのである。

第1回おわり  第2回 こちらから       (文:フリーライター 柴田美幸)

<参考文献>
『阿寒横断道路開道五十年 永山在兼顕彰の碑建立記念誌』阿寒国立公園広域観光協議会
『国立公園指定50周年記念 阿寒国立公園の三恩人』種市佐改(釧路観光連盟)
『北海道東部開発の先駆者 永山在兼顕彰誌』四元幸夫(鹿児島県日置郡東市来町)
『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町
『阿寒町史』阿寒町史編纂委員会
『弟子屈町史』(昭和24年版・昭和56年版・平成17年版)
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
『ほっかいどう学新聞 第2号 広域観光のための道路が戦前にできたのは、なぜ?』北室かず子
第1回 人で繋がるシーニックバイウェイプロジェクト「永山在兼と2つのみち」レジュメ 「永山在兼と阿寒国立公園への道」小林俊夫

<監修・協力>
小林俊夫氏(前弟子屈町教育委員会教育長)
片岡佑平氏(弟子屈町教育委員会社会教育課学芸員)
新保元康氏(特定非営利活動法人ほっかいどう学推進フォーラム理事長)