永山在兼
~大自然を車で旅する時代へ。観光と道路を結びつけた先駆者~ 第2回

自動車で拓かれていく道東の地
 ここで、永山がいた当時の時代背景を見てみよう。
大正時代、道東の根釧(こんせん)地方(根室・釧路地方)は重点的に開発が行われた。北海道開発第二期拓殖計画では根釧原野の開拓に力を入れ、多くの入植者が移り住むようになっていたため、道路を切り開く必要があったのだ。永山が所長となった釧路土木派出所の所管は、根釧原野および北方領土の国後島、択捉島にいたる広大な範囲に及んでいた。
 また、大正3(1914)年にヨーロッパで第一次世界大戦がぼっ発すると、翌年から日本の輸出品の需要が増して好景気に沸いた。国内では物資の輸送の需要が高まり、鉄道だけでなく、そのころ普及し始めた自動車が導入されるようになっていた。
 さらに、大正9(1920)年、道路法が施行。国や自治体の予算で既存の道の改良・開削を行い、国道や町村道などとして敷設されることになった。とくに、開拓道路として開削が始まるところが多い北海道には特別措置が認められ、施行の日から適用となる。これらの道路は、最初から自動車に対応してつくられた。永山は、新たな時代の道路事業の最前線を担う期待の星だったと言えるだろう。

 永山が最初に手掛けた道路は、その大正9年に開通した美幌(びほろ)峠〜屈斜路(くっしゃろ)湖畔間(現・国道243号の一部)である。もともと途中まで道はあったが、同年の豪雨によって釧路川があふれ大洪水となり、道路が寸断されて、釧路川上流のまち・弟子屈(てしかが)が孤立してしまった。そこで、美幌から食料など物資を補給するため、美幌峠への道を貫通させたのである。この時点では、一般的な物資輸送道路として開削したのであって、永山にはまだ観光道路という考えはなかった。だが、パノラマのように広がる屈斜路湖の景観が見事なこの道は、図らずも、のちの阿寒国立公園の観光道路へとつながっていく。
 ちなみに、道内でいち早く自動車が導入されたのは根釧地方だった。範囲が広大であり、鉄道だけではカバーしきれないため、自動車による輸送が注目されたと考えられる。大正3(1914)年、道内で初めて根室地域の根室〜厚床(あっとこ)間でバス事業が始まり、次に釧路市内便の運行が始まっている。いずれもアメリカ・フォード社製の幌型8人乗りで、大きなタクシーといった感じだ。
 とはいえ、ほとんどの地域では小さな道が断続的にあったに過ぎない。永山はそれらをつなぎ合わせ、釧路を基点に、道東の主要都市を結ぶ鉄路と連動したルートを拓いていった。

国立公園候補になった阿寒湖
 昭和2(1927)年、永山は前代未聞の道路計画を発表する。「永山プラン」と呼ばれる、阿寒湖と屈斜路湖、摩周湖を道路で結ぶ案である。画期的だったのは、最初から生活道路ではなく観光を目的に、全長約80キロにおよぶ大工事を行う点だ。しかも、険しい山道を切り拓かなければならない。
 大きなきっかけは、阿寒湖が国立公園の候補地になったことだった。国立公園はアメリカで生まれた制度で、大自然の景観を国民のため、そして後世に残すため、国で保護・管理するというもの。自然保護と同時に、雄大な風景を楽しむ新たな観光として注目されていた。日本もそれにならい、大正10(1921)年に16カ所の候補地を選定。阿寒湖がエントリーされる。さらに、マリモが国の天然記念物に指定された。
 ただ、このころの阿寒湖は、一部の知識人や文化人を除いて全国的にはほとんど知られていなかった。釧路方面から阿寒湖へ行くにも、交通が不便で2泊しなければたどり着けなかった。明治期には、途中クマよけのラッパを吹きながら進んだというほどの秘境である。大正12(1923)年に雄別炭砿鉄道(のち雄別鉄道)が開通すると、舌辛(したから 現・釧路市阿寒町)まで鉄路で行けるようになったが、あとは徒歩だ。しかも、途中からは七曲りという尾根筋の難所で、踏み分け道しかなかった。
 阿寒湖が国立公園候補になったことは、道庁や地元に大きな変化をもたらした。道議会では、阿寒湖だけでなく、近隣の弟子屈に位置する屈斜路湖、摩周湖を含んだ指定を目指す案が採決される。それにともない、一帯を観光地として発展させようという気運が高まった。

観光道路という構想につながった大ゲンカ
 国立公園指定を確定させ、観光客を呼び込むには、自動車に対応した道路が絶対必要だと永山は考えた。雄別炭砿鉄道が開通した大正12年、永山は、まず阿寒湖にいたる道を自動車対応の道路へ改修・開削する。先に述べたように難所の開削のため、当時のお金で11万円という巨額が投じられた。それが現在の「まりも国道」と呼ばれる国道240号の一部である。
 永山が自動車観光道路という構想を持つようになったのには、こうした背景のほかに、ある人物が影響しているようだ。それは、阿寒湖が国立公園候補になる前のこと。阿寒川河口のまち・大楽毛(おたのしけ 現・釧路市)で旅館を経営していた伊藤鉄次郎は、かねてから阿寒湖が類まれな景勝地であることに着目し、観光地としての可能性を見ていた。「阿寒の景勝を世に送り出すために、道路を良くして自動車を走らせるようにしてほしい」と、何度も永山に陳情していたという。だが、永山は当初、まったく取り合わなかった。
 あるとき、阿寒川が洪水となり、永山はその対応のため大楽毛で宿を乞(こ)う。それが伊藤の旅館であることを永山は知らなかった。永山を見た伊藤は帳場から立ち上がり、「この家には、地方民の切なる真面目な陳情を一考もしない人の足を入れさせない。ただ今をもって旅館を廃業する!」と憤(いきどお)ったという。
 永山と伊藤は大ゲンカになったそうだが、永山は伊藤の情熱に共感し、意気投合。そして伊藤は永山の真の理解者となり、深く交流することになる。伊藤によって、永山は自動車による観光への関心を強くしたと思われる。

 伊藤はその後、旅館業をやめて舌辛へ移り、大正15(1926)年「伊藤自動車部」を開業。息子の保雄に運転免許を取らせて、永山によって開削された道路を使い、アメリカ車のシボレーの1トントラックで阿寒湖畔まで人や貨物を輸送した。これによって、舌辛から阿寒湖畔まで2時間で行けるようになり、鉄道を併用すれば釧路から阿寒湖畔までの日帰り旅行も可能になった。片道だけで2泊していたころとは雲泥の差だ。
 また同じころ、弟子屈の温泉地・川湯と屈斜路湖畔を結ぶ道路も開削され、伊藤より少し早く、釧路〜弟子屈間で自動車の客貨輸送業者が登場している。
 後年、鉄次郎の息子・伊藤保雄が語ったところによると、当時の免許番号は700番くらいだったとか。全道でも免許を持っている人はかなり少なかったことがわかる。ちなみに、伊藤自動車部は現在の阿寒バスの前身であり、保雄はのちの阿寒バス社長である。

伊藤鉄次郎(出典:「阿寒国立公園指定50周年記念 目で見る阿寒国立公園」)

前代未聞の「永山プラン」実現への道
 道路法施行とともに自動車時代が幕をあけ、さらに国立公園候補地となったことで、阿寒湖とその一帯の観光は本格化し始める。昭和2(1927)年、永山は「釧路保勝会」という観光団体の発足にも関わり、阿寒湖を中心に弟子屈の屈斜路湖、摩周湖を含めた広域での国立公園指定を目指した。
 また、大正10年代以降、網走方面へ鉄路が延びて釧網本線が開通し、道東が旅行先として注目されるようになっていた。昭和6(1931)年に網走〜釧路間が全通し、道東の観光に多大な貢献をするわけだが、永山はそれを見越して、鉄道と自動車の連動を構想していたに違いない。
 問題は、それぞれの湖をつなぐ道がないことだった。あっても山道で、とくに阿寒湖畔と弟子屈のあいだはクマが多く、アイヌの人の案内なしには危険だったという。その状況を解決するアイデアが「永山プラン」だった。⓵弟子屈〜摩周湖(約15km)、⓶弟子屈〜阿寒湖畔間(約40km)、そして十勝地方へぬける⓷阿寒湖畔〜茂足寄(もあしょろ)間(約25km)の、全長約80kmのルートを開削するというものだ。

阿寒横断道路の永山プラン(資料提供:(一社)北海道開発技術センター 永田泰浩氏)

 地元の新聞記事では、「永山プラン」について次のように伝えている。

永山所長は早くから自動車道路論者で、之(これ)まで尚早(しょうそう)の批難さへあったが其理想に努めた結果、釧路の原野には現在自動車の運転が各方面に行われているが、更に開拓推進を兼ねた遊覧自動車道路を設けんとする(以下略)

*昭和2年10月22日「釧路新聞」より

 「遊覧自動車道路」とあるように、最初から自動車による周遊観光ルートとして開削するというのは前例がなかった。さらに、すでに開削した美幌峠と屈斜路湖周辺、阿寒湖周辺の自動車道路とドッキングさせ、一帯を大観光地として周遊できるようにしようという計画は、時期尚早という批判があったというから時代を先取りしていたと言える。当時、国が第一次世界大戦後の不況から外貨獲得のため海外観光客、今でいうインバウンドを誘致しようとしていたことも、永山の念頭にあったかもしれない。
 このプランに、道庁は大反対した。なかでも阿寒湖畔〜弟子屈間については「絶対反対」という立場をとった。「阿寒横断道路」と呼ばれるこの道は、「地元民でも人跡未踏のあの原始林の険しい谷間に、道路が造れるとは思ってもおりませんでした」と後年語る人がいるほどの難所として知られており、大変な難工事が予想されたからだろう。そして、通常は地元の町村から陳情があるなど生活道路としての有用性が重視されたが、この道路は陳情があったわけではなかった。道庁は必要なしと判断したと思われる。

 だが永山は、道庁の反対を押し切って予算を獲得。昭和3(1928)年に着工する。まず弟子屈〜摩周湖(摩周湖第一展望台)間が翌4(1929)年に開通した。重機などがない時代、深い原始林の中をすべて人力で工事しなければならない。現場監督を務めた人によると、笹や樹木が生い茂って見通しが悪く、完成してからも「摩周登山道」と言われたそうだ。

昭和9年頃の摩周第1展望台(出典:「国立公園指定50周年 目で見る阿寒国立公園」)

第2回おわり  第3回 こちらから       (文:フリーライター 柴田美幸)

<参考文献>
『阿寒横断道路開道五十年 永山在兼顕彰の碑建立記念誌』阿寒国立公園広域観光協議会
『国立公園指定50周年記念 阿寒国立公園の三恩人』種市佐改(釧路観光連盟)
『北海道東部開発の先駆者 永山在兼顕彰誌』四元幸夫(鹿児島県日置郡東市来町)
『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町
『阿寒町史』阿寒町史編纂委員会
『弟子屈町史』(昭和24年版・昭和56年版・平成17年版)
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
『ほっかいどう学新聞 第2号 広域観光のための道路が戦前にできたのは、なぜ?』北室かず子
第1回 人で繋がるシーニックバイウェイプロジェクト「永山在兼と2つのみち」レジュメ 「永山在兼と阿寒国立公園への道」小林俊夫

<監修・協力>
小林俊夫氏(前弟子屈町教育委員会教育長)
片岡佑平氏(弟子屈町教育委員会社会教育課学芸員)
新保元康氏(特定非営利活動法人ほっかいどう学推進フォーラム理事長)