廣井勇(ひろいいさみ)~近代化の扉を開いた、清き技術者~ 第1回

小樽の市街地から小樽湾をなぞるように北へ。古代文字で知られる手宮洞窟を過ぎたあたりに、湾に向かって「小樽湾北防波堤」が伸びる。北防波堤は1910(明治43)年、土木工学者・廣井勇(ひろい いさみ)の指揮のもと竣工し、100年以上にわたり荒波に耐え、港を守り抜いている。このように、廣井の名は港湾の分野でよく知られているが、橋梁工学の第一人者でもあり日本の近代土木工学の基礎を築いた。その生涯をたどってみよう。

廣井勇(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)

現在の小樽港北側から見た防波堤。手前が北防波堤(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所)

はてしない学問への渇望

廣井勇は、1862(文久2)年、高知藩佐川領(現在の高知県佐川町)の土佐藩士・廣井喜十郎の長男(幼名・数馬)として誕生した。廣井家は代々、領主の深尾家に仕えてきた。深尾家は家臣の子弟への学問を奨励し、名教館(めいこうかん)という学校を設立。著名な学者を招くなど教育に力を注いでいたことで知られる。
廣井の曽祖父にあたる廣井遊冥は、儒学(漢文)・算術(数学)の学者として、名教館で教授を務めた人物だった。祖父の勘左衛門も儒学者であり、父の喜十郎は遊冥から算術を伝授され、藩の御納戸役(金品の出納などを担当)として勤務していた。廣井は父から教えを受けていたようだ。のちに土木工学の道へ進んだのも、こうした学問の基礎と環境があったからだろう。
ところが、明治維新を迎えると状況が一変する。廣井家は領主から藩主直属の家臣となり、家禄(給料)が減らされて生活が苦しくなった。そんな中、1870(明治3)年に父・喜十郎が死去。廣井はたった9歳で廣井家8代当主となり、領主の深尾家の移転に伴って土佐(現在の高知市)へ移り住む。しかし、父亡きあとの生活は困窮し、祖母と母の内職で糊口をしのいでいた。
このころの廣井に多大な影響を与えたのは、祖母のお勇(ゆう)だった。お勇は土佐藩家老・野中兼山が行った港湾の大事業や、偉大だった曽祖父の功績を語り聞かせていたという。廣井少年の心には、学者になるという志がいつしか育まれていたに違いない。
転機は、1875(明治5)年にやってきた。母・寅子の義弟で、明治天皇の侍従を務めていた片岡利和が高知に帰郷したときである。家を立て直し、祖母と母の生活を楽にするためには、学問を修めて身を立てることが必要と感じていた廣井少年は、片岡に頼み込んだ。「どんな仕事でもしますから、東京へ連れて行ってください」。母も「そんなに行きたいのなら、行ってごらん」と許してくれた。廣井11歳の旅立ちだった。

上京した廣井は、片岡家の書生として住み込みながら英語、数学などの私塾に通った。だが、片岡家には廣井より少し年上の腕白な息子がいて、乱暴な遊びを強いられることもあり辟易していたようだ。そんなときは納屋に隠れて3日間も食事を絶ち、勉強に打ち込んだ。なかでも英語は、西洋の最先端の知識や技術を学ぶのに必須であり力を入れていた。片岡家を出入りしていたイギリス人商人・キンドンとも親しくなり、廣井が腸チフスに罹ったときは彼が自宅に引き取って介抱し、命を救ってくれた。廣井はその恩を生涯忘れなかったという。
1874(明治7)年3月、廣井は難関の東京外国語学校英語科の最下級に、最年少の13歳で合格。内村鑑三や宮部金吾など、生涯の友となる人たちともこの学校で出会う。その年の12月に英語科が独立し東京英語学校となるが、工学に関心があった廣井は退学。そして、これも難関だった工部大学校(旧工部寮、現東京大学工学部)予科に転入した。だが廣井は、いつまでも片岡の世話になるわけにはいかないと考えていた。官費で行ける学校を受験し合格するものの、年齢が達していないという理由で入学が許されない日々が続いた。

貫いた“紳士であれ”の精神

1877(明治10)年7月、その2年前に開校した札幌農学校(開校時は札幌学校、翌年改称。現北海道大学)が、工部大学予科や東京英語学校などの学生を対象に二期生の募集を行った。入学には、語学力はもちろん「健全な身体と立派な人格」を備えていることが求められたという。官費生であることから、さっそく受験した廣井は見事合格。数え年16歳以上の募集だったが、このとき廣井は15歳。入学規定を満たすため1歳サバを読んだようだ。そしてここでも最年少だった。二期生には同じく英語学校で学んだ内村や宮部など、やがてさまざまな分野で名を成す、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。
札幌農学校は、北海道の開拓事業の中核となる人材を育てるため、開拓使によって設置された学校である。官費で入学した者は、卒業後は北海道に在住し開拓使で5年間働くことが条件だった。
開拓使次官の黒田清隆は、アメリカから農業や工業を指導する技術者を招へいした。アメリカ政府農務局長だったケプロンは、黒田の求めに応じ、開拓使顧問として技術者を呼び寄せた。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長で農学校の初代教頭に選ばれたクラークもその一人だ。教授に就任したのは、クラークの推薦で来道した彼の教え子たちだった。

廣井の入学時には、クラークはすでに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という言葉を残して帰国しており、土木技師・ホイラーが教頭になっていた。ホイラーは現在の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)の設計者で、札幌圏に運河・道路・鉄道を建設する可能性について開拓使から依頼されていた。1877(明治10)年には豊平橋を設計している。豊平橋は、その2年前にアメリカ人技師・ホルトにより道内初の洋式橋梁として架設された、木材・鉄材複合のトラス橋(三角形を組み合わせた骨組みを持つ橋)だった。しかし、1年半も経たぬ間に洪水で破壊。ホイラーはその原因を激流の中央に橋台を作ったためとし、改善して架設工事を行った。

W.ホイーラー教授(北海道大学付属図書館資料室 所蔵)

1878(明治11)年のホイーラー設計の豊平橋(北海道大学付属図書館資料室 所蔵)

土木の授業では、アメリカ陸軍士官学校のテキストが用いられ、橋梁や建築物の屋根の構造など、土木工学の基礎を身につけることに重点が置かれた。土木学の授業は、開拓使の仕事で多忙なホイラーに代わりピーボディが担当。ホイラーは測量などの図画法を担当していた。実際に測量するため調査遠征を行うなど、実地に学び現場を重視するホイラーの姿勢は、のちの廣井の仕事の指針となる。ちなみに、ホイラーは顎ひげだけを生やしていたので、「山羊(ゴート)」というあだ名をつけられていたという。

廣井による、「土木工学」ピーボディ教授の講義ノート(北海道大学文書館 所蔵)

初代教頭のクラークは、キリスト教と聖書によって道徳や教養を身につけ、紳士であることを学生に求めた。クラークが教えた「ビー・ジェントルマン(紳士であれ)」の精神は札幌農学校に根付き、二期生では廣井や内村、宮部ら7名がキリスト教の洗礼を受けている。彼らはウェブスター辞書から付けたクリスチャン・ネームで互いを呼び合い、廣井は「チャールズ」と名乗った。
あるとき、あるアメリカ人教師が、教卓の上に引き出しの中身が散乱しているのを見て「こんなことをするのは紳士ではない。私に深く謝りなさい!」と怒った。学生のいたずらと疑ったのだ。すると廣井が立ち上がり、「真相を確かめもせず批判するのを、あなたの国では紳士的とおっしゃるでしょうか。よくお調べください」と言った。教師は机の修理を依頼していたことを思い出し、職人が後片付けをしなかったと悟った。そして、疑ったことを深く侘びたという。

廣井はクリスチャンとして、何事にも誠実であろうとした。私利私欲のためでなく、世の中のためになにができるかを常に考え、キリスト教の伝道に携わりたいという思いがあったようだ。しかし、卒業間近のある日、廣井は内村に対して次のように語っている。「この貧乏な国において、民衆の食料を満たすことなく、宗教を教えても益は少ない。僕は今から伝道を断念して工学の道に入る」。

こうして廣井は、工学によって人々の生活と心を豊かにすることを自らの使命とし、生涯をかけて実践していくのである。

卒業間近の1881(明治14)年7月、廣井勇(後列右から2番目)、内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲造など12名の札幌農学校第2期生と教授たち(北海道大学文書館 所蔵)

 

第1回おわり  第2回 第3回    (文責:フリーライター 柴田美幸)