函館港改良施設群
「明治期に積まれた石と、コンクリートの重み」
 文 谷村志穂  写真 佐々木育弥

公開

 北海道の土木遺産に選出された建築物について調べていくと、この土地の発展のために挑んでいった人々のさまざまな志に出会う。同時に恥ずかしながら、自分の無知にも多々気付かされる。
 2004年に「北海道港湾修築の嚆矢的構造物群で最初期の港湾コンクリート。廣井ひろいいさみ設計のコンクリートブロック基礎の船入澗ふないりま防波堤やコンクリートブロック造のいぬいドック」との選奨理由で登録された函館港改良施設群の解説シートでも、まず「嚆矢的」というひと言に読み詰まってしまうところから始まった。
 博識の方には笑われてしまうかもしれないが、「嚆矢」と書いて、「こうし」と読むそうだ。嚆矢とは、その先端にかぶらという装置をつけた矢で、飛ぶときに大きな音を出す。中国由来だろうか。日本でも、合戦の最初にこの矢を飛ばす習慣があり、嚆矢的とは、そこから転じて、物事の始まりとなること、を意味する。文字通り、矢の音を響かせる存在となった、の意味となるようだ。

 私は函館に夏の仕事場があるので、函館港改良施設群の中核となる、船入澗防波堤も第一号乾ドックも存在は知っている。
 防波堤の方は、実は仕事場から眺められ、何度か散歩をした。その堤の上でのんびり羽を休める鴎や、釣りをする人たちも見てきた。目前には平生穏やかな函館港が広がり、振り返ると函館山を見上げる位置に、昔からずっとある防波堤だ。
 函館の街に流れる時間を象徴するような、人の手仕事を感じさせる、石積みの防波堤。石は整然と並びながら、一つ一つに柔らかみがある。多少朽ちてはいるが、良港名高い函館港の船の出入りを見守ってきた番人のような風情は、絵にもなる場所だ。

 ただ、その向こうに見える現代建築のホテルやビル群とは時間の隔たりを目立たせていて、今にも取り壊されてしまいそうな防波堤にも思えていたのは確かだった。なので今回、この由緒を知り、土木遺産として守られていることがわかり、嬉しくなった。
 竣工されたのは、船入澗防波堤が明治32年、続いて第一号乾ドックが明治36年である。ペリー来航により、下田とともに全国でいち早く開港した函館(当時は箱館)には、外国人居留地やそのための倉庫、民間による埋め立て工事が一気に進んだ。港は、船の出入りでひしめき合っていた。
 その昔、船舶というのは、ドックができる以前は、船底などに破損が生じ回航が不可能になると、修理の方法がなく、そのまま廃船とされていたそうである。
 こうした状況を懸念した函館地元の経済界の有志が、明治11年の時点ですでに、開拓使にドックの築造を請願している。調査は進められ、各国の技術者が派遣されるも、なかなか実現しない時間が続いた。
明治25年、北垣国道が北海道開拓の長官となって、ようやく実現に動き出す。彼は京都府知事だった時代に琵琶湖疏水を成功させており、函館にドックを作るのは急務だと考えた。
 明治29年、民間の手で、函館船渠株式会社(現在の函館どつく株式会社)が立ち上がる。ちなみに、船渠と書いて、せんきょと読み、これはドックのことだとも今回知った。
 当初の計画では船舶は3500トン級で想定されていたが、日清戦争の記憶が新しい海軍からの勧告により、ドックは1万トン級の施設として規模を拡大するよう計画は変更される。ドック底は広げられ、当初は石積みが計画されていた側壁は、コンクリートブロックで予算を削減するよう積算がなされた。
 それでもなお資金繰りは悪化、工事は遅延、函館船渠は幾多の難題を乗り越えて、明治36年についに仮開業を迎える。
大変な始まりではあったが、以後、函館の活気は、函館どつくが牽引していったのは、私の子供時代の記憶にも鮮明だ。多くの船が海から運び入れられ、大きく口を開いた掘割に収められていく。水門を閉めると、排水されて乾いたドライドックとなる。ここで、修理も検査も、行われる。
 私も一度ヘルメットを被って見学させてもらったことがある。このドックの方も損傷が目立つが、ここは想像以上に広く深い。幾多の船を収めてきた巨大なゆりかご。広々としたドック底の両側に高く、積み上げられた側壁には、コンクリートブロックも用いられているが、不思議と船入澗の石積みと似た、人の手により仕上げられていった風情があり、今なお存在感を強く放っていた。

 船入澗防波堤の指揮を取ったのは、土木学者の廣井ひろいいさみだ。
 廣井の経歴を見ると、土佐の教育家庭の生まれ、幼い頃より儒学を共に学んだ名教館(めいこうかん)という学舎の同世代には、NHKの朝のドラマ「らんまん」の主人公となった、植物学者の牧野富太郎もいる。
 廣井は9歳で父と死別し、11歳で上京するが、16歳の時に全額官費で生活費も支給されると知った札幌農学校に入学し、北海道の土地を踏んだ。内村鑑三や新渡戸稲造とともに二期生となった。
 官費生の規定により開拓使に奉職、北海道最初の鉄道や、鉄道橋梁に関わる。

 その後、私費でアメリカに渡り研鑽を積み、明治22年秋田港、明治26年小樽港の築堤にもあたった。
 北国の防波堤には、冷たい季節風や厳しい波浪に耐えられる強いコンクリートが必要だとして、火山灰を混入したコンクリートを開発する力の入れよう。工事中は、現場でも自らコンクリートを練った。またそれらのコンクリートブロックを並置するための最適な傾斜角を編み出す。設計の際に必要な波圧の算出法も、廣井公式と呼ばれ、今も使われているという。
 札幌農学校の官費生活費支給は、こういう叡智を育む場ともなったのだ。
 ちなみに船入澗防波堤から護岸にかけての石垣は、1150メートルにも及ぶ。この石垣には、旧弁天砲台の取り壊しで出た間知石、亀腹石、などの石材が再利用されている。この砲台の設計者、武田斐三郎(あやさぶろう)は、五稜郭も手がけたた蘭学者で、確かに石積みの雰囲気は星の形に張り巡らされた城郭の壁ともよく似ている。旧弁天砲台の石垣の工事は、石工棟梁の井上喜三郎が担当した。
 五稜郭で言えば、35年ほど前に竣工しているが、それらの石垣を見た廣井は、
「此建築は、今日のものに比して毫(ごう)も劣る所なし」と、感銘を受け、船入澗防波堤に、この石積みを採用している。「毫」も、普段は馴染みのない言葉。筆の穂先だ。ほんのわずかも、の意味。
 また、水中の石積みをより強固にさせるべく石工に潜水の腕を磨かせた。当時新しかった上磯セメントの使用を慎重に決め、他にも石積みを強固にするための工夫を惜しみなく凝らしたようだ。
 だから、今もそこに堂々とある。
 先人の知恵を新しい技術へと繋いだ廣井の思いを、今度その場を訪ねた時には、ふと感じるのだろう。

谷村 志穂 (たにむら しほ)
作 家

<略歴>
1962 年 10 月 29 日北海道札幌市生まれ。
北海道大学農学部にて応用動物学を専攻し、修了。
1990 年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』(角川文庫)がベストセラーとなる。
1991 年に処女小説『アクアリウムの鯨』(八曜社/角川文庫)を刊行し、自然、旅、性などの題材をモチーフに数々の長編・短編小説を執筆。 紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。
2003 年南北海道を舞台に描いた『海猫』(新潮社)が第 10 回島清恋愛文学賞を受賞。
現在、北海道観光大使・函館観光大使・七飯町観光大使を務める。
代表作に『黒髪』(講談社)、『余命』(新潮社)、『尋ね人』(新潮社)、『移植医たち』(新潮社) など。
道南を舞台に他にも『大沼ワルツ』(小学館)、『セバット・ソング』(潮出版)などがある。
最新作は『過怠』(光文社)。
作家としての活動の傍ら豊富な取材実績を活かして旅番組などの出演も多数。

佐々木育弥(ささき いくや)IKUYA SASAKI
写真家

<略歴>
北海道上士幌町生まれ。東海大学芸術工学部くらしデザイン学科卒業。曽祖母の死をきっかけに写真を通してできる「人とのつながり」に心を打たれ、独学で写真活動を開始。自身のプロジェクトとして「障害のあるアスリート写真展」を企画・発表。広告・雑誌など幅広く手がけ、無印良品・SUBARU・NEC・新建築社・LIXIL・CCCメディアハウス(PEN・フィガロ・単行本)・マガジンハウス・美術手帖・AIR DOなど実績多数。北海道文化財団「君の椅子プロジェクト」から生まれた書籍『「君の椅子」ものがたり』や「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 30周年記念カレンダー」、現在大規模改修工事中の北海道庁赤れんが庁舎実物大写真シートの撮影など、北海道の魅力を発信する仕事にも力を入れている。
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