国内初の長距離馬車道の建設
札幌本道の大きな特徴は、馬車が通る「車道」として整備されたことである。函館方面から本願寺道路(現在の中山峠の元となった道)に通す計画もあったが、調査したワーフィールドは、馬車を通すには険しすぎるとし、平坦な地形が続く太平洋側に決定した。
札幌本道は、馬車がすれ違える道幅と楽に通行できる勾配を備え、路面には「マカダム舗装」という当時最先端の工法が使われた。マカダム舗装とは、砂利を層になるよう敷きつめて固める舗装方法である。さらに、排水性を高めるため路面の断面はカマボコ型に作られた。弥十郎は、道路工事と火薬による山の切り崩し、橋台の築堤工事などを担当した。
工事はワーフィールドの測量隊の後を追う形で行われた。弥十郎が書き残した日記によると、ワーフィールドの測量技術は非常に高く、一度測量したところは変更することがなかったそうだ。高低測量では1日に2里(約8km)測ることもあり、弥十郎はその早さに驚いたという。
現場では、ワーフィールドは仕立て方(工事の段取り)の指示を、通訳を通じて新道担当の官吏へ伝えていた。しかし、彼らは土木建築についてはまったくの素人で理解できず、毎回指示通りにならない。怒ったワーフィールドは弥十郎だけに指示をし、弥十郎から官吏へ伝える、という方法に変更。すると、思い通りに工事が進むようになったため、ワーフィールドは大いに喜んだ。弥十郎は「是によって我は、総場所の仕立方教師のごとき権力を有せり」と、のちに日記に記している。
無沢峠(現・七飯町)の石の切り崩し工事の様子。工事現場では「蝦夷地 御用」の旗を立て、法被(はっぴ)の背中に「開」の字章をつけて作業にあたった (北海道大学附属図書館 所蔵)
開削された無沢付近の様子。里程標が建てられ、「従是森村波戸場迄五里拾七町余(これより森村波戸場まで5里17町あまり)」と記されている (北海道大学附属図書館 所蔵)
亀田(函館)〜森村(現在の森町)間の工事は順調に進んだが、その先の室蘭までの間は難所があるため馬車は通れないと判断され、やむなく船による海路となる。弥十郎は森に拠点を移し、森と室蘭をつなぐ波止場の建設工事に取り掛かった。これは洋式の木造桟橋と艀(はしけ)を用いた簡易なものだった。
ある日、杭打ちをしていると、新政府に登用されて間もない榎本武揚が4、5人のお供を引き連れてやってきた。開拓使に命じられた資源調査の巡視の途上で立ち寄ったようだ。アットゥシ(樹皮の糸で織った衣服)を着て編笠を被り、作業員から火をもらってキセルをふかしているこの人が、箱館戦争の総大将だった榎本とは誰も知る由もないだろう、と弥十郎は回想している。
このとき榎本は、重要なアドバイスをくれた。近隣の鷲ノ木村(現在は森町)の天然アスファルトが湧き出すところに弥十郎を案内し、「これを杭に塗れば防腐剤になる」と教えてくれたのである。おそらく、榎本が旧幕府軍としてここに上陸した際に見つけていたのだろう。言われた通り杭に塗ったところ、15年経っても朽ちなかったという。
全長255mの森桟橋。写真は1911(明治44)年の様子で、この年に改築された。航路は一時廃止ののち明治41年に再開、1928(昭和3)年の鉄道開通の頃まで運行していた。現在も杭の遺構が見られる (北海道大学附属図書館 所蔵)
札幌本道は6月に亀田〜森間が完成、7月には早々と駅馬車が開業した。そして、森の波止場工事が終わらないうちに新室蘭のトカラモイ(トッカリモイ。現在の室蘭中心市街地)から先を着工することになる。弥十郎は、準備のため自分だけ先に舟で室蘭側へ渡ろうとしたが、風向きの悪い日が続いたので陸路で向かった。ところが、旧室蘭(現在の室蘭市崎守町)の海岸から新室蘭へ向かおうとしたところ、深い谷に阻まれて先へ進めなくなってしまう。そうこうしているうちに日が暮れて、海岸で夜を明かすことにしたものの、後ろの山からクマが出てくるのではないかと気が気でない。そのとき、沖に一艘の小舟が通りかかった。乗っていたのは2人のアイヌで、弥十郎は声の限りに叫び、新室蘭まで渡してもらって無事、作業小屋に到着する。弥十郎はまたしてもアイヌの人に助けられた。
こうして、7月に室蘭から鷲別(現在の登別市)〜島松(現在の北広島市・恵庭市)間の工事が始まる。火薬で山を切り崩したり、180本もある橋の土台を作ったり(亀田〜森間では143本)と、難工事が続いた。環境も劣悪で、ほとんど人家がないため、テントを張るか、クマザサやヨモギで屋根をかけた仮小屋に寝泊まり。雨が降れば夜具や衣服はぐっしょり濡れてしまった。食料の輸送も滞り、飲み水にも事欠いて汚れた水を飲むこともあったという。
苦難を乗り越えながら、9月には樽前(現在の白老町・苫小牧市)までの道路が完成。島松の手前まで工事が進んだところで雪が積もり、一時中断となった。
室蘭の工事の様子。手前にテント、奥に仮小屋が見える (北海道大学附属図書館 所蔵)
完成目前でのワーフィールドの解雇
実は、弥十郎は並行してもう一つの道路工事にも携わっていた。前年に始まっていた札幌〜銭函(現在の小樽市)間のうち、銭函〜札幌円山村(現在の札幌市円山・琴似)間の修築を任されたのだ。この道も馬車道として作られていたが、ワーフィールドは自分ではなく部下に測量を行わせたため、測量が不完全で旧道よりも不便になるおそれがあった。弥十郎は測量をやり直し路線を改め、工事の段取りを部下に指示して現場を離れた。工事区間は最も難工事が予想された地点だったが、10月に完成。これは、日本人の技術者が近代的な道路工事を指導した、北海道初の事例と考えられる。
また、札幌へ出張した弥十郎は、開拓使工業局に着任した安達喜幸らに面会し、この道路の件を打ち合わせている。ときには昔話に花を咲かせることもあったのだろうか。工事が止まっていた冬の期間、東京行きを命じられた弥十郎は、横浜から初めて機関車に乗っている。自分や安達らが手掛けた高輪築堤を通ったとき、いったいどんな気持ちだったのだろう。
1873(明治6)年4月、弥十郎は北海道へ戻り、雪解けとともに工事が再開される。残るは島松〜札幌間だ。しかしこのとき、ワーフィールドはすでに解雇されていてその姿はなかった。実は、彼は酒癖が大変悪かった。現場の山中でクマに襲われて以来、短銃を肌身離さず持っていたのだが、酔った末にアイヌの人が働き手として大事にしていた犬を撃ち殺してしまう。さらに、札幌で酔って暴れて建具を壊し、止めに入った通訳を刃物で切りつけて怪我を負わせるという事件を起こした。解雇は、短気な性格も災いした問題行動の結果だった。「測量事業はすこぶる名人」と高く評価していた弥十郎にとっても、痛手だったに違いない。
新たな測量技師には、東京の開拓使仮学校で数学と英語を教えていたワッソンが着任した。もしかすると、弥十郎はワッソンを以前から知っていたかもしれない。というのも、前年に四男の伊藤徳松が開拓使仮学校に入学していたからだ。徳松は、訳あって弥十郎の実父の旧姓である伊藤姓を名乗っており、11歳から英語を学び13歳で入学を許されたという秀才である。
工事はワーフィールドの時と同じく、ワッソンの測量に基づき弥十郎が現場に指示して進める、というやり方で進められた。そして8月、ほぼ完成のめどが付く。室蘭〜札幌間の約180kmを約1年半という短期間で完成させることができたのは、お雇い外国人たちの技術力もさることながら、実際に施工した弥十郎と作業員たちの高い技量あってこそだろう。こうして札幌本道は国内初の長距離馬車道として開通した。9月には、黒田清隆が4頭立て馬車で函館から札幌まで駆け抜けたという。北海道では、文明開化はまさに道路から始まったのだ。
開拓少判官・榎本道章から指示されて制作した「新道出来形絵図」。開拓使の山崎貞興が画を担当し、弥十郎が測量を手掛けた。函館〜森村波戸場の部と、この室蘭〜札幌豊平川の部の2冊が作られた (北海道大学附属図書館 所蔵)
「新道出来形絵図」の、最後の札幌の部分。弥十郎の日記には「道路長幅屈曲ならびに各所の川幅橋梁の長幅にいたるすべてを明細に取調べ」たとある (北海道大学附属図書館 所蔵)
札幌本道完成後、東京で残務処理を行う中で、弥十郎は本道沿線の土地をコマにした、すごろく作りを思い立つ。絵などすべて自分で編さんし、一枚摺りの錦絵に仕上げた。上局に見せたところ、250部は上局から諸官省へ配布し、あとは自由に販売して良し、ということになる。子どものころから際立っていたという弥十郎の商才を感じるエピソードだ。
北海道新道一覧双六 表紙
弥十郎が編さんした「北海道新道一覧双六」。表紙にはアイヌのモチーフが美しくデザインされている (函館市中央図書館 所蔵)
1875(明治8)年3月、札幌在勤の辞令が下ると、弥十郎は強い不満を覚えた。在勤ということは、完全に札幌へ移住することを意味している。弥十郎にとって、生活の拠点はあくまでも家族のいる東京であり、北海道へは出張しているに過ぎなかった。4月には辞表を書き、健康上の理由として辞職する。この辞令がなければ、北海道へ戻り「なおまた一段勉強して充分実功を奏すべし」と思っていただけに、残念というのが本心だったのかもしれない。このとき弥十郎は53歳になっていた。
新聞販売店経営から再び北海道へ
開拓使辞職後は、徳松に英語を教えた英文学者・子安峻(たかし)に相談し、子安が社長となった「日就(にっしゅう)社 読売新聞」の売捌所(うりさばきじょ。新聞販売店)の経営を引き受けることになる。ちなみに、日就社 読売新聞は現在の読売新聞社の前身である。ここでも弥十郎の商才は発揮され、開業した売捌所を「芳文堂」と名付け、着実に読者数を増やしていった。読者がほとんどいなかった大阪では、新聞配達人に揃いの洋服を着せ、黒塗りの箱に鈴を付けて、5人一組で大阪市中を売り歩かせた。これが評判となって読売新聞は大阪進出を果たす。弥十郎はいくつになってもアイデアが尽きなかった。
弥十郎が東京へ戻った明治8年、息子の徳松は入れ替わるように札幌へ出発。翌1876(明治9)年、札幌農学校が開校し第1期生となる。徳松は名を伊藤一隆(かずたか)と改めており、キリスト教を信仰していた。一隆が兄弟を連れて築地の女学校のクリスマス会に出かけたときのことを、弥十郎は「我が家にキリスト教の種はじめて此時に蒔(ま)かれたり」と日記に記している。
伊藤一隆。札幌農学校卒業時のころと思われる。開拓使および道庁で、北海道の水産業の発展に貢献した (北海道大学附属図書館 所蔵)
1879(明治12)年、一隆に札幌への移住を勧められ、弥十郎は一家揃っての移住を果たす。以前とは違い、家族が一緒のため決心したのだろう。弥十郎が北海道に舞い戻ったことを知った開拓使は、工業局勤務を依頼。弥十郎は再び土木の職に就いた。
おもな仕事としては、1878(明治11)年から鉄道技師のクロフォードによって幌内(現在の三笠市)〜手宮(小樽市)間に石炭輸送のための鉄道敷設が計画されており、それに伴う小樽駅逓から手宮までの車道建設を安達とともに手掛けた。盟友とのコンビ復活である。弥十郎は、その後も重要な道路工事を手掛けていった。
1927(昭和2)年、札幌農学校時代に宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた第1期生・2期生によるハリスの墓参りの様子。左から2人目が廣井勇、右端が伊藤一隆 (北海道大学附属図書館 所蔵)
弥十郎は、1886(明治19)年の北海道庁設置とともに退官したと思われる。引退後は、毎週日曜に教会へ通い、禁酒会の集まりに参加するなど教会活動に熱心だったようだ。1889(明治22)年10月6日、弥十郎はここ北海道で66年の生涯を閉じた。現在、札幌市の里塚霊園に眠っている。
その後の札幌本道は、建設時の意に反して荒廃してしまった。理由としては、それ以外の道路が未整備で馬車道としての機能を充分に発揮できなかったことや、馬車の運賃が高いため石狩川を使った物資輸送が主になったことがある。さらに、鉄道敷設後には小樽港が利用されたこともあって、使われない幅の広い道の維持が難しくなり、荒れ果ててしまったのである。
しかし、現代になると基幹道路の原型として生かされた。とくに国道36号の札幌〜千歳間は、国内初の長距離アスファルト自動車道路(弾丸道路)として建設されることになる。弥十郎たちが流した汗は、無駄ではなかった。今ではなくてはならない道へと生まれ変わり、現在の北海道の暮らしを支えている。
※本文中の名称は、平野弥市だった時代も「弥十郎」で統一しています。
終わり
[参考文献]
『平野弥十郎幕末・維新日記』桑原真人・田中彰 編著/北海道大学図書刊行会
『クラーク先生と その弟子たち』大島正健 著、大島正満・大島智夫 補訂/教文館
『北海道道路史 Ⅱ技術編』北海道道路史調査会
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
『我、鉄路を拓かん』梶よう子/PHP研究所
『続 北海道開発にかけた人間ドラマとフロンティア精神』阪本一之/須田製版
「平野弥十郎と伊藤一隆 北海道に人生をかけた父と子」歴史街道 2022年10月号/PHP研究所
「北海道を支えたインフラ事業の150年」北海道開発局
「ミスターDoの北の街道物語 札幌本道」道路情報館PRESS vol.5/北海道開発局
「概説 高輪築堤」港区教育委員会
「鉄道開業150年 港区と鉄道の夜明け」港区ウェブ
「大隈重信と高輪築堤」早稲田ウィークリー 2023年4月20日/早稲田大学ウェブ
「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」解説/東京都立図書館ウェブ