平野弥十郎
~洋式の大道路建設で、北海道の文明開化の起点を築く(第1回)
  文・フリーライター 柴田美幸

公開

 函館〜札幌間の太平洋側ルートは、主要なまちや空港を経由して伸びる幹線道路だ。そのうち現在の国道5号の一部と国道36号の約180kmは、開拓期に開削された「札幌本道」が礎となっている。江戸時代までは、アイヌの人の草分け道や、北方警備で幕府の役人が通行するための道としてあるだけだった。明治維新後は、いわゆる「お雇い外国人」によるアメリカの道路技術の導入で整備が進められた。そして1873(明治6)年、国内初の洋式長距離馬車道「札幌本道」として開通。北海道の開拓に大きな役割を果たした。
 この、当時最先端ともいえる近代的な道路づくりに携わったのが、平野弥十郎という人である。江戸で指折りの土木請負事業者として知られ、明治期には新橋〜横浜間の鉄道敷設のうち新橋〜品川間で海中に土手を築くという大仕事を成した。さらに札幌本道の開削では、アメリカの技術者との橋渡し役を担い、大道路の建設に一役買うことになる。明治の文明開化の現場には、平野弥十郎がいた。

晩年の平野弥十郎(北海道大学大学文書館 所蔵)

江戸随一の土木請負人

 弥十郎は、1823(文永6)年、江戸・浅草の飯田半兵衛の次男として生まれた。幼名は源八郎。家業は雪踏(せった)仲買商で、弥十郎は子どものころから非凡な商才を発揮していた。旺盛な好奇心と冒険心を持つ弥十郎は、仕事を覚えるのが早く商売のアイデアも豊富で、12歳で奉公した先の主人からその能力を認められていたという。
 1843(天保14)年、21歳で雪踏下駄商の平野屋の入り婿に望まれる。養子に入って富(とみ)と結婚し2代目・平野弥市となった。しかし1852(嘉永5)年、世の中が不景気になったため店をたたみ、30歳で薩摩藩出入りの「土工請負人」という異業種へ転身する。土工請負人とは、藩が発注する土木工事を、多くの作業員を差配して遂行する仕事だ。さしずめ工事のプロデューサーといったところだろうか。なぜ薩摩藩だったのかは、養母の平野幸(こう)が理由の一つかもしれない。幸は隠居した先で薩摩藩の家老など要人へ茶の湯をふるまっていて、彼らと懇意だった。
 弥十郎の、人を差配する才能は土木事業で開花する。1853(嘉永6)年の黒船来航により、幕府は国防のため品川沖に品川台場を築造、弥十郎は工事の一部を請け負った。続いて薩摩藩邸の台場築造工事を落札。1日に1500人もの作業員が携わる大工事を成功させ、土木請負人としての手腕が広く知られるようになる。
 なかでも重要な大仕事だったのが、神奈川台場の築造だ。設計は勝海舟で、弥十郎は勝から洋式砲台の建築技術を学ぶ。勝はしばしば工事現場にやってきて、弥十郎だけにその技術を教示したという。昼夜を徹して作業が続く過酷な現場だったが、弥十郎は士気を高めるため「神奈川砲台」と染め抜いた手ぬぐいを作業員に配り、酒を振る舞った。そして着工から1年後の1860(万延元)年に竣工。神社で餅と百文銭を撒いて盛大に祝った。
 また、日米通商修好条約の締結によって5港が開港し、築地に外国人向けホテル建設の計画が持ち上がると、懇意だった大工棟梁の清水喜助のもとで、仲間とともに工事を請け負った。金銭的トラブルに見舞われたものの、1868(慶応4)年「築地ホテル館」が落成。アメリカ人技師の設計による国内初の本格的なホテルだった。ちなみに、清水喜助は現在の清水建設の創業者である。
 明治の世になると薩摩藩出身者が新政府の中核を占め、弥十郎は元薩摩藩の役人の口利きで、横浜での数々の土木工事を請け負う。ところが、沼地を埋め立てて神社を移築する工事では、6割ほど埋め立てたところで仕切り板が壊れ元の沼地に戻ってしまい、一から工事をやり直すという事態を招いてしまった。順調に大仕事を成し遂げてきた弥十郎にとって、経験したことのない大失態である。
 多額の損失を出し、気落ちしていた弥十郎を励ましたのは、妻の富だった。「頭上で山が崩れるような大事にも驚かないあなたが、こんな小さなことでなぜそんなに落ち込むのでしょう。請負人は、思いも寄らない損や得を得ることは常に起こるもの。また幸いが来ることも、いくらでもありますよ」。そのような富の言葉に、「多いに勢気を得」たという。

海の上に鉄路を築く大仕事

 そして1869(明治2)年、ある話が弥十郎の心を昂らせた。同じく薩摩藩出入りの大工だった盟友の安達喜幸(当時の名は久治郎)から、東京・新橋と横浜間で、日本初の鉄道建設が始まることを聞く。さっそく2人で入札に挑み、八ツ山下(現在の品川駅あたり)の仮橋架設工事を落札。安達は橋一式を、弥十郎は掘割を請け負った。
1870(明治3)年、イギリスの鉄道技師モレルが来日。民部大蔵省内に鉄道掛が新設され(同年12月に工部省鉄道掛)、2年後の開業を目指して工事が始まった。

 しかし、難題が待っていた。鉄道敷設に反対した兵部省(ひょうぶしょう。国の防衛を司る機関)の用地を避けるために、海上に堤(つつみ)を築き、その上に鉄道を敷くことになったのだ。距離は約2.7kmに及ぶ。この命を下したのは、鉄道敷設を重要な近代化政策として位置づけていた大隈重信だった。
 浅瀬の海を埋め立てて長距離の堤を築くというのは、それまで例がない。また、暮らしがたち行かなくなるのではと不安に思った高輪や品川の漁業者、鉄道が通ることで商売に支障が出ると考えた街道沿いの商店などの反対も根強く、政府による交渉は難航した。
 翌1871(明治4)年、いよいよ海上の築堤工事が始まる。弥十郎は品川停車場が作られる八ツ山下と高輪間の築堤工事に作業員を派遣。さらに、安達などと3名で芝浦〜高輪間の築堤工事を請け負った。これが「高輪築堤(たかなわちくてい)」である。

JR高輪ゲートウェイ駅の建設に伴い発掘された、「高輪築堤」の橋梁の橋台部。橋梁は東京湾へ漁の舟を通すために作られた。石材をレンガのように整形した後、目地を接着して積んでおり、西洋の方法を取り入れたと考えられる (港区郷土歴史館 所蔵)

 日本初の鉄道は、1872(明治5)年6月、まず品川・横浜間で仮営業が始まった。高輪築堤は竣工間際に、嵐によって突き固めた土砂が流されて一部が崩壊する災難に見舞われ工事が遅れたのだ。そして同年10月14日、新橋・横浜間が全面開通し、正式に開業した。
 ちなみに、弥十郎と安達は西洋形木製橋の架設工事も手掛けている。安達は橋一式を、弥十郎は、神奈川台場築造からの旧知の森田藤助と橋の土台の築造を請け負った。それが国内初の跨線橋「八ツ山橋」である。

「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」歌川広重(三代)画。右手に見えているのが石造りの跨線橋・八ツ山橋。築堤を走る機関車は、完成する明治5年以前、明治4年ごろに予想で描かれたと思われる (東京都立図書館 所蔵)

 弥十郎ら土木のスペシャリストたちによって、海上への鉄道用築堤という前代未聞の難工事は成功した。しかし、国内初の鉄道完成に沸き立つ現場に、弥十郎の姿はなかった。

北海道開拓の道路建設への挑戦

 機関車が初めて東京の海の上を走ったころ、弥十郎の姿は北海道にあった。
 1872(明治5)年1月、高輪築堤の工事が佳境を迎える中、弥十郎は芝・増上寺に開設されていた開拓使東京出張所に呼び出された。そして工部省の開拓使御用掛として、北海道の道路建設工事を指揮することを命じられる。高輪築堤の工期が遅れたため、弥十郎は途中で工事を抜けなくてはならなかった。同じく、ともに力を尽くした安達喜幸も開拓使御用掛となり、洋風建造物の建築に携わるため北海道へ渡ることになっていた。北海道の開拓は、それだけ急を要していたのである。
 背景には、ロシアの南下への脅威があった。開拓使次官(のち長官)の黒田清隆は、国防として開拓を早急に推し進めるために、アメリカからホーレス・ケプロンを招へいして開拓顧問に据える。ケプロンは、土木技師ワーフィールド、鉱山技師アンチセルなど技術者を伴って来日。のちにケプロンの推薦で採用された人々も含めた「お雇い外国人」たちによって、北海道開拓に西洋の近代技術が導入されることとなった。

 重要な開拓推進計画の一つが道路の建設である。ケプロンは、ワーフィールドの意見から幹線道路の建設を政府に提案する。これは、交通網の整備によって沿道の開拓を進展させるというアメリカ西部開拓で用いた方法だった。なかでも、北海道の玄関口・函館と開拓使本庁のある札幌間の「札幌本道」は、早急な道路建設が求められたのである。そこで、施工の指揮者として白羽の矢が立ったのが弥十郎だった。前年に札幌本道の絵図面引きを手伝っていたことや、これまでの豊富な経験が評価されての起用だった。

ケプロンとともに来札したアメリカの「お雇い外国人」たち。左から2人目の座っているのがケプロン、テーブルを挟んで右隣がワーフィールド (北海道大学附属図書館 所蔵)

 しかし、以前は励ましてくれた妻の富も、今回ばかりは違った。「請負人として名声を得ているのに、なぜ安月給で遠い北海道へ行くのかわかりません。年々得る利益は、その月給の何倍にもなるのに」と大反対する。数々の難工事を見事に乗り越えてきた弥十郎の姿を、最も近くで見てきたからこその言葉だろう。弥十郎は「請負業は、儲かるときもあれば、必ず失敗するときもある。そうなれば負債も多くなって進退極まることは、昔から請負人の常だ」として、請負業を廃業し「官途奉職の身」、つまり月給取りの公務員になったのである。ただし、安月給のまま使われる気はなかったようだ。
 弥十郎の決断は、盟友の安達も北海道へ行くことが要因の一つだったのかもしれない。なにより、自身の手腕でもって北海道開拓という未だかつてない事業に挑戦してみたい、という思いがまさったに違いない。そして弥市の名は七男の松之助に譲り、弥十郎と改名した。このときすでに50歳。いくつになっても、持ち前の好奇心と冒険心が失われることはなかったのである。

あわや遭難という波乱の出発

 同年2月、弥十郎は必要な物資と作業員とともに、一番船の東京丸で品川から函館へ向かう。ほかに開拓使の新道建設担当の官吏、土木技師のワーフィールドなど総勢500人あまりが乗り込んで出港。船は岩手県の宮古の港へ立ち寄ったのち、下北半島の尻屋(しりや)岬を通って一路、函館を目指した。
 しかし、ここで大事件が起こる。一寸先も見えない濃霧の中を航行していたその時、いきなり船が岩礁に乗り上げた。函館への航海が初めてだった船長が、濃霧で進路を見失った末に誤った方向へ舵を切り、船を座礁させてしまったのだ。しかも船底が破れて大量の海水がなだれ込み、船内は大パニックに陥った。
 そんな中でも、弥十郎は冷静だった。まず、狼狽している船長の手をしっかと握って落ち着かせ、救助要請のラッパを吹くよう指示。そして作業員たちに船底から荷物を運び上げさせて破損箇所を調べた。見ると、思ったより損傷が激しく、浸水はひどくなるばかり。そこで、荷物の中にあった上等な生地や毛布など手当たり次第に割れ目へ詰めるよう作業員に命じた。だが防ぎようもなく、船はメキメキと音を立て今にも壊れそうになる。とにかく、遠くに見える浜辺に何人かで上陸して助けを求めようと、弥十郎たち数人は備え付けのボートで向かった。すると、運よく1人のアイヌの老人に出会い、近くの村に助けを求めることができた。弥十郎たちが着いた先は現在の函館市恵山で、周辺の村からの救助船によって全員生還を果たしたのである。のちに弥十郎は、この働きが認められて昇進し昇給、黒田清隆より報奨金も賜ることになる。
 しかし、工事のために用意した器具や道具はすべて海中に没してしまった。陸路でなんとか函館には到着したものの、作業員たちは暇を持て余し、旅費を酒代に注ぎ込みケンカまで始める始末。弥十郎は、二番船で道具類が到着するまで、もっこ作りや農具作りなどの仕事を与えて急場をしのいだ。
 ところが、ともに生還した技師のワーフィールドは短気な性格で、しびれを切らして亀田一本木(現在の函館市若松町)から測量を始めてしまう。弥十郎は至急、函館じゅうの鋤(すき)や鍬(くわ)を買い上げ、作業員を引き連れて亀田ヘ向かい、起点の一番杭を打った。明治5年3月18日、こうして180kmにも及ぶ札幌本道の工事が始まった。

亀田(現・函館市)に打たれた起点の一番杭。撮影したのは、箱館戦争時の新選組・土方歳三の写真で知られる田本研造。田本は開拓使の依頼で開拓事業を撮影した。以下、札幌本道工事の撮影は田本によるもの (北海道大学附属図書館 所蔵)

作業員は請負人を通して全国から集められ、技量試験を行い約5400人が採用された。これは亀田・桔梗野での谷地の埋め立ての様子 (北海道大学附属図書館 所蔵)

第1回おわり(第2回に続く)