道庁正門前木塊舗装・銀杏並木
「引きの景色」 人々の心を躍らせた 特別な百二十メートル
 文 谷村志穂   写真提供 札幌駅前通まちづくり株式会社

公開

 北海道庁がネオ・バロック様式の赤れんがの建物として建造されたのは、開拓使が廃止された六年後、北海道が新たな歩みを始めた明治二十一年だった。アメリカのマサチューセッツ議事堂を見本に、留学経験のある道庁土木課の平井晴二郎氏が、設計に当たった。
 真似たとは言え見事な限りの洋館で、シンボルとなった八角塔のドームにこだわったのは、初代の道庁長官、岩村通俊だったと言われる。地上二階建て建物をより大きく見せているのは、このドームゆえ。独立と進取のシンボルとした。
 復古調の建築デザインは、当時のアメリカにおいても流行していた。新しい国の開拓者たちが、歴史あるデザインを取り入れて風格を保ちながら前進しようとした、その象徴のような建物だったのだろう。
 道庁庁舎に用いられたのは、れんがやサッポロ軟石など、主に道内産で、屋根は英国でよく見られるスレート葺きだ。調べても理由が出てこないのだが、明治二十九年にはシンボルの八角塔が消失。明治四十二年には、建物内部の火災を経たが、赤れんがの外壁には損傷がなく、二年のうちに復旧する。昭和四十三年まで現役の道庁として働き、同年北海道開道百年を記念して八角塔は再建、国の重要文化財となる。今も、一部は市の会議などに用いられ、隣接する新庁舎の優しい門番のように、五稜星を掲げてそこに存在している。
 札幌特有の澄んだ青空の広がる日は、れんがの赤がことさら鮮やかに引き立つ。また雪の日には、白く遮られた視界の奥に、その赤い色が生命力を放って見える。発展という名の下に、全国各地で、様々な名建築が取り壊されていったが、道庁は中央屋根下にある赤い五稜星までが大切に保存され、開拓の頃からの土地の歩みを伝えてくれている。

 さて、赤れんが庁舎、と親しみを込めて呼ばれるこの建物が魅力的なのは、建築の美しさもさることながら、実は「引きの景色」を伴ってのことだと、私は感じている。
 この庁舎から続く約百メートルの銀杏並木の街路には、実は私たちが記憶にとどめておきたい事柄が、ひっそりと存在する。
 美しい街路は、大正十三年にはすでに整備されていたのを、まず覚えていたい。札幌で最初に整備された、街路なのである。
 今は、北三条通と呼ばれ、この路は赤れんが庁舎から苗穂駅までまっすぐに伸びるが、当時は札幌通り、さらに以前には開拓使通りと呼ばれていた。通りには、開拓使時代の庁舎や、要人たちの邸宅、札幌農学校、味噌や麦酒、葡萄酒などの醸造所、総合病院が並び、街の発展を担う起点となる道だった。
 大正十三年に、この道の道庁正門前から札幌駅前までの、百二十メートル弱の区間が、特別に整備される。
 札幌市公文書館所蔵のセピア色の写真を見ると、銀杏はまだ移植されたばかりで背も低く、広い道幅の中央を、当時は限られた人たちだけが乗ったはずの自動車がゆったりと走っているのが写っている。

 道庁の八角塔はちょうど消失していた時期で、庁舎はこぢんまり見える。
 これが、道庁正門前銀杏並木の、始まりの景色だった。
 銀杏は当時の北海道では入手が難しい樹木。だが、東京土木事務所より、荒川の堤防用に育てられていたものを譲り受け、車道と歩道の境界樹として、等間隔に植えられていった。指導に当たったのは、道庁初代の勅任技師であった名井九介氏だった。
 当時からの銀杏並木が、今も生きているのだから、名井氏の慧眼である。
 樹木のうち樹齢百年を超えるのはなんと二十八本。大正十三年の写真にあったのは、三十二本だった。まだ弱々しかった樹木が、この地に根付いて街の成長とともに育ち、繁茂していたのだと知らされる。冬の寒さにもよく耐えて、生き残った強い木々が、今は人々に木陰や安らぎを与えているのである。

大正13(1924)年の北海道庁正門前道路(出典:「北海道道路史」)

 そして、この道にはさらに特筆すべき秘密が隠されている。
 路面である。
 現在は、江別産の焼き煉瓦を敷き詰められていて、景観との調和に成功しているが、この道路が完成した当時は、今ではほとんど見ることができない、木塊れんが舗装だった。道庁前での実際のその舗装を知る方々は、すでにもう九十代以上のお歳を迎えられている。
木塊れんがとは、木材(ここではブナ材)をレンガ状のブロックとして、これにコールタールを混ぜた防腐剤を染み込ませたもの。玉石の基礎の上に、コンクリートを敷き、その上に、この黒くてごろりとした木塊を並べ、舗装とした。これが札幌での最初の舗装道路となった。最先端の土木技術だったのだ。
 銀杏並木に木塊れんがの舗装道路、正面には、赤れんが庁舎、札幌の街を歩く人々の心を躍らせた特別な百二十メートルだったはずだ。
 この舗装は、昭和五年までは用いられたが、やがて木塊れんが摩耗して、また水分を含んで浮き上がるようにもなり、この木塊は底に残したまま、上からアスファルト舗装がかぶせられた。その後にはさらに、モルタルを敷きコンクリートブロックを嵌め合わせていくインターロッキングが重ねられて、層が作られていった。だが路面の深部では、黒い木塊れんがが眠っており、長らく我々の足音の響きを受け止めてくれていたことになる。

 平成二十六年からが、現在の路面だ。焼きれんがを二十一万個敷きの舗装道路として再スタート。長さも百メートルに縮小され、歩行のための道路となり、広場も設置された。
 よく茂った銀杏並木の木陰を人々がゆっくり散歩できる快適な道路だ。ベンチやカフェのテラスができ、テラスでは、張り出されたパラソルの下で、コーヒーを飲み、食事もできる。また、かつて辺りで醸造されていたはずの、ビールや、ワインを飲むことができる。広場で行われているイベントを眺めながら、ひと休みも。なんとも落ち着く場所になっていて、私は札幌での待ち合わせ場所は、よくこのテラスを選ぶ。個人的に思うことだが、人がその場所でなんとも落ち着く、と感じる時には、その奥には決まって、時間をまたぐ繋がりや広がりがある。

 北三条広場の一角には、碑の形をした案内パネルが設置され、当時の木塊れんが舗装が覗けるガラス張りの展示がされていて、これは楽しい試み。  
 この場所の魅力を知るきっかけになりそうだ。
 こうして知るほどに、道庁前は「引きの景色」にこそ、大いに魅力ありと思うのだった。北海道の開拓者たちの先を見据えた魂が、道路景観を懸命に仕上げていった土木者たちの知恵や技術に引き継がれていった。
 テラスで風に吹かれながら過ごす時間に、足元から、時の厚みが伝わる一画だ。

谷村 志穂 (たにむら しほ)
作 家

<略歴>
1962 年 10 月 29 日北海道札幌市生まれ。
北海道大学農学部にて応用動物学を専攻し、修了。
1990 年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』(角川文庫)がベストセラーとなる。
1991 年に処女小説『アクアリウムの鯨』(八曜社/角川文庫)を刊行し、自然、旅、性などの題材をモチーフに数々の長編・短編小説を執筆。 紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。
2003 年南北海道を舞台に描いた『海猫』(新潮社)が第 10 回島清恋愛文学賞を受賞。
現在、北海道観光大使・函館観光大使・七飯町観光大使を務める。
代表作に『黒髪』(講談社)、『余命』(新潮社)、『尋ね人』(新潮社)、『移植医たち』(新潮社) など。
道南を舞台に他にも『大沼ワルツ』(小学館)、『セバット・ソング』(潮出版)などがある。
最新作は『過怠』(光文社)。
作家としての活動の傍ら豊富な取材実績を活かして旅番組などの出演も多数。