札幌本道赤松並木
馬車道を飾り「赤松街道」
  文 
谷村志穂

(写真提供:七飯町)

 道には、それぞれ歴史がある。
 その歴史に宿った人々の営みに鮮やかさを見ると、印象は深く刻まれる。
 北海道の人たちも今では忘れがちだが、日本が開港してから新政府が立ち上がるまでの間、はじめに拓かれていった場所は、函館や七飯町といった道南エリアだった。
 横津岳や駒ヶ岳の山々、また山の裾野に広がる大沼湖沼群は、水豊かに肥沃な大地を育んだ。
 誰の目にも良い土地だったろう。
 プロシア人(ドイツ人)のガルトネルを中心に、約1000ヘクタールの広大な農園が運営されていたのも、あまり知られていない。ガルトネルらは、当時、蝦夷島総裁榎本武揚と七飯村開墾条約を交わした。約1000ヘクタールを99年間貸与するという約束だ。この約束の元に、七飯町は、西洋式農業を一気に開花させる。国内にはなかった農業道具などが運び込まれた。また、りんごやさくらんぼ、梨などの果実をはじめ、豊潤な農業が展開されていった。
 しかし、明治新政府はこの条約を撤回、違約金を支払い、プロシア人たちを追放する形をとる。代わって新政府は黒田清隆を開拓使次官とし、アメリカに派遣。アメリカからケプロンを顧問に招き、本格的に北海道の開拓に乗り出した。ここからの歴史は、比較的よく知られるようにも思う。
 開拓の中心に据えられたのは、北海道の拠点を、道南から石狩平野の広がりがある札幌へと移すことだっだようだ。
 これには、先進地である道南から札幌に向けて、人や技術、農産物を運ぶための道が必要だというケプロンの進言が取り入れられる。明治5年、当時としては1000万円という巨費と、北海道からの税収250万円が投じられて、「札幌本道」の開削が始まる。
 開削にあたっては、関東、東北、九州からも人夫が大勢集められた。なんでも、明治5年に集められた人夫だけでも5400人を数え、皆各地で研修を受けて、背中に「開」の字の書かれた半纏を着て、挑んだそうだ。
 現存するモノクロームの写真を見ると、広々とした長閑な道に見える。道幅は、9〜15メートルと、当時としては類を見ない立派な道路で、馬車が行き交うことを容易とした。
 この道を伝って、札幌が拓かれていくのだが、当時半纏を着て開削した人々の一体どれほどが、その先に、後の政令指定都市札幌の発展を予測できたであろうか。 

 札幌本道は、急ピッチで開削されていき、2月から7月までで森までの44㎞が、1年4ヶ月後の翌年明治6年6月には、室蘭、千歳、札幌までが開通した。
 実はこの道に先駆けて、明治3年には本願寺道路という、本願寺の普及のための道も通されている。ルートが異なり、本願寺道路は室蘭から中山峠、定山渓を通り札幌へと入る。
 いずれも、峠や谷を超えて切り開かれた道だが、当時はいずれもに、どうしても陸路では進みきれぬ箇所があり、札幌本道は、森から室蘭が、本願寺道路は、砂原から室蘭がと、噴火湾は船を利用して渡っていたと、今回探した資料で知った。

札幌本道の開削現場 (明治5年)(出典:国土交通省北海道開発局HP「北海道開発のあゆみ」

 ガルトネルらを追放した歴史は、町史においては「ガルトネル事件」と呼ばれている。豊かな果樹園を手塩にかけて育んだ外国人を、礼を尽くさず、追い出してしまったと、振り返る人もあれば、あのままではプロシアの植民地となっていた、と大転換を評価する声もある。
 七飯町に、結果として、今もその肥沃な土地の恵みと、伝えられてきた技術によって、立派なりんごやぶどうが生産され、ワインやチーズの名産地にもなっている。
 そして、札幌本道に刻まれた素晴らしい歴史遺産が、今回執筆にあたっている「赤松街道」だ。 

七飯町のぶどう畑(写真提供:七飯町)

 北海道開拓の要として開削された札幌本道は、日本ではじめての本格的な西洋式の馬車道となった。このシンボルとして、街路樹の植栽が決められた。
 この際、植栽に選ばれた樹木が赤松だったのは、特筆すべきことだったのではないだろうか。赤松は、本来、北海道には自生しない樹木だが、道南には新政府となる以前からすでに、御薬園なる研究の場が存在した。海からの風や馬の侵入を防ぐことのできる強い樹木として、佐渡などから取り寄せた赤松の種子がすでに播種されていた。これのルーツを置く幼木が、札幌本道の街路樹として採択され、御薬園から旧道への移植を経た幼木が、再び移植されている。

 さらに、明治9年と明治14年の明治天皇が訪問される際、続いて昭和16年の照宮成子内親王が大沼に来られた際にも、赤松は補植されていったという記録があり、街路樹としての赤松は、当時よりすでに、立派にシンボルとしての役割を果たしていたのだと想像される。
 誕生からもうじき150年となる赤松並木は、その後、太平洋戦争も経て生き残り、国道5号となった札幌本道は日本の道百選に選ばれるまでに浸透する。同時に、函館から七飯までを飾る街路樹として植えられた赤松の並木は、市民によって「赤松街道」と命名されて、堂々たる印象を伝え始める。赤松街道を有する、国道5号の魅力は深い。

日本の道百選「赤松並木」(写真提供:七飯町)

 現在、赤松は約1100本ほどとのこと。函館から七飯方面にかけての延長は14・3㎞だ。
 函館―札幌間を車で通ったことのある方々なら、おそらく一度は、その道の両側から枝を伸ばす赤松の荘厳ともいえる姿に出会っているだろう。札幌からなら、あと少しで函館という最後の行程を見守られるように、函館からなら走り出す際に励まされるように赤松の枝が道の両方に繁る。老樹の樹皮には風格があり、長年風雪に耐えてきた強さと優しさが宿っている。
 個人的な話になるが、私の母方の墓は道南の市渡という場所にある。毎夏、祖母と一緒に、母に手を引かれて通った。
 盛夏、蝉時雨の中、最寄りというにはやけに遠く感じた七飯駅から、子どもの足では一時間近くの道を歩いて墓参りに向かった。祖母も母も車の運転をせず、歩いていくのが習慣だった。
 今その道を地図で見ても、どうにも不思議な周り道をしているのだが、帰路、祖母は必ず赤松街道へと一旦、逸れて、その木陰を通って駅へと向かった。松がくれる木陰の柔らかさや、独特の風景は、なので今も私の心に残っている。
 自分で車を運転するようになると、あっという間に通り抜けてしまうようにも感じる距離だが、今では街道には人気の蕎麦屋さんができたり、住宅も増えたりと人の営みとともに街道が成り立っているのを感じる。赤松が少し元気なく見えた時期もあれば、張りすぎた枝が剪定された跡が少し寂しく見えたこともある。最近では、こも巻、こも外しといった、わらで編んだむしろを用いて、寄生虫から赤松を守る取り組みが、季節の風物詩にもなっている。
 赤松を守っている主役は市民の方々で「七飯町赤松街道を愛する会」が存在する。今回、この執筆にあたっては、会長の寺沢久光さんがご講演で用いられた資料より、私は改めて多くを教わった。会が守っているのは、赤松を象徴とするこの道の歴史、この道が担ってきた北海道開拓の歴史のようにも思う。もしかしたら祖母も、この道の歴史のファンであったのかもしれないと想像すると楽しい。

谷村 志穂 (たにむら しほ)
作 家

<略歴>
1962 年 10 月 29 日北海道札幌市生まれ。
北海道大学農学部にて応用動物学を専攻し、修了。
1990 年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』(角川文庫)がベストセラーとなる。
1991 年に処女小説『アクアリウムの鯨』(八曜社/角川文庫)を刊行し、自然、旅、性などの題材をモ
チーフに数々の長編・短編小説を執筆。 紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。
2003 年南北海道を舞台に描いた『海猫』(新潮社)が第 10 回島清恋愛文学賞を受賞。
現在、北海道観光大使・函館観光大使・七飯町観光大使を務める。
代表作に『黒髪』(講談社)、『余命』(新潮社)、『尋ね人』(新潮社)、『移植医たち』(新潮社) など。
道南を舞台に他にも『大沼ワルツ』(小学館)、『セバット・ソング』(潮出版)などがある。
作家としての活動の傍ら豊富な取材実績を活かして旅番組などの出演も多数。

道路付属物としての並木の役割

 「札幌本道赤松並木」(七飯町、函館市)は、平成18年に選奨土木遺産に選定されましたが、その選定理由は、「わが国最初の本格的な西洋式馬車道「札幌本道」完成の際に移植された赤松の並木道。日本近代道路史と北海道農業開拓史における歴史遺産」とされています。
 並木は、当然のことながら道路と不可分なもので、道路法上、道路付属物として位置付けられています。道路付属物とは、道路の安全と円滑な交通のために、道路を管理する上で必要な施設や構造物で、並木のほかに防護柵や街灯、道路標識、バス停などが該当します。

 それでは、並木はどのような役割を果たすのでしょうか?
整理すると次のような効果が期待されています。
1. 夏の日陰を提供し、排気ガスや騒音をやわらげ、道路沿いの環境を改善します。
また、災害時には避難路の安全に寄与します。
2. ドライバーの視線を誘導し、まちの目印ともなるので、安全でスムーズな交通につながります。
3. まちを美しく彩り、四季の移り変わりが楽しめ、都市の人々に潤いを与えます。
4. 野鳥や昆虫の活動や繁殖の場となり、都市の自然(生態系)を豊かなものに回復します。

日本の並木の歴史

 日本の並木はいつ頃から始まったかと言うと、奈良時代(759年)に奈良・東大寺の普照法師が大和朝廷に願い出て、畿内七道諸国の駅路に植えたのが最初とされています。
 普照は留学僧として遣唐使に随行し、唐の長安と洛陽を結ぶ両京道路に果樹を植えるようにとの詔勅が出されているのを知ったようです。そして、帰国したのち、朝廷への重い貢ぎ物を背負って運ぶのに苦労している百姓たちを見て、その飢えや渇きを潤すために唐に倣って果樹の並木を植えることを考えたとのことです。
 その後、織田信長が街道に並木を植えさせ、この時期から並木道の整備が盛んになったようで、江戸時代には現存する日光街道の松並木をはじめとした五街道など、主要な街道には並木が植えられました。