ユベオツの百人 ㉛草野眞治 文 藤倉撤夫
(「えべつの歴史―市民がつくるまちのれきし―」第24集 編集・発行 江別市総務部 から転載))

 こんな話を聞いた。” 草野は男気(おとこぎ)のある奴だと街中の評判であった“ ‥‥。もう、30年も前、江別駅前の条丁目に住む備後博外から聞いた話である。
 昭和11年、新夕張川の落口(おちぐち)、江別太と豊幌間の函館本線鉄道橋の完工が急がれていた。この鉄橋の下部工事(基礎と橋脚)は、札幌の森合組が請負い、草野が現場主任として指揮をとる。そこは想像を絶する泥炭性軟弱地で、橋脚を地中に固定するケーソンが二回も流される難工事となった。
 この橋脚のコンクリートを乾かすため、炭を江別の店七軒ほどから取りよせたが、森合が危ないとの噂が流れた。ために大半の店は手をひく。が、備後商店(4条2丁目)は承知で炭を出した。案の定、森合は倒れ、工事は草野が引きつぎ、新工法をとり入れ翌年(昭和12)に完成する。時は流れ、四、五年のち草野が備後商店訪ね、既にない森合の債務に利子をつけ清算したという。
 眞治は新潟県の出身、父・徳三が明治23年の旭川第七師団兵舎建設の折、伊藤組(大倉組の下請)の鳶頭(とびかしら)として来道する。この鳶頭の長男が眞治で、大正2年、17歳のとき森合組に入り、同7年に富士製紙(のちの王子)江別工場増築工事のための江別出張所長として着任。これが縁で、以降 ”男気ある奴“ は江別に腰を据える。なんとまだ22歳であった。
 森合組が解散した昭和13年、草野に岩田徳治(岩田建設)から声がかかる。札幌の一条大橋(幹線道路)の施工を代行してほしい。ただし概算で29万円かかる工事を、市の予算23万円でやれないか、との難題。眞治は工法等を任せてもらうことを条件に受諾。結果は最新機械の導入などで工期を短縮、予算内どころか4万円余の利益を出して完成させる。
 これで岩田の名は高まり、”橋の岩田“ の異名(いみょう)までいただく。同時に草野の凄腕も官界業界など関係筋に知れわたる。結果、頂戴した美称は ”橋づくりの名人“ である。
 草野の場合、大きな橋の下部構造についての技術で、それは日頃からの研鑽の賜物(たまもの)であった。そのため急場に直面したとき、出口を新しい技術に求めるに躊躇はない。それに当時、草野のコンクリート打ちは確かだ、との評判もあった。それは自分の工場で材料を吟味して作るからで、こうした傍目(はため)にはつかない、仕込みに金と時間と職人を使ったからこその評判であり、名人でもあろう。
 草野が施工の主な橋は、森合組時代は大正9年・(旧)石狩大橋、同13年・(旧)豊平橋、昭和2年・(旧)幌平橋、同7年・旭川のシンボル旭橋、草野組以降は、既述の(旧)一条大橋、同26年・(旧)東橋、同29年・(旧)幌平橋など数えあげるときりがない。
眞治の趣味は仕事と酒である。男気正統派の答である。勿論、職人に対し厳しかったが、その分、大事にした。彼の時代、冬は休業同様であったが鳶頭や大工の棟梁、腕こきの職人などは通年雇用で手ばなさなかった。
 はたから見ると、草野は金もうけなど考えていないふうに見えた。が、彼曰(いわく)。採算度外視にみえる難工事を引きうけたのは、組の力をつけるためである。最終的にはこっちに勝ちがくる、と。名捕手のように、遠く高くまで事業展開がみえたのだろう。だからこそか、地域社会への目配りも相当以上のものがある。
 戦後、昭和30年代頃まで北電江別火力発電所(現・北電総研)脇に、” 坊主山“ と呼ばれるスキー遊びにもってこいの小さな山があった。前出の備後によれば、ここに昭和の10年前後から街の人たちが得意げにこう呼んだ ”草野シャンテ“ (スキーのジャンプ場)があって、小学生から女学生まで雪まみれとなった。眞治がまだ兄(あん)ちゃん時代、人夫を出し、丸太を組み、平板を敷いて、無償で何年も続けたものである、という。
その他二、三あげると①江別神社第一鳥居の奉納(昭28)、②江別第一中学校へ水泳プール寄贈(昭38)、変わったところでは、③15号台風で家を失った豊幌の渡し守(巴農場)に家屋解体材を無償提供(昭29)したりと、企業メセナが云々される前から、地域社会への文化貢献を続けてきたのである。
 昭和36年、眞治は勇退、長男繁夫が後をつぐ。二代目社長は、同51年の江別市下水道工事に道内初のシールド工法を採用する。また近年(平7)、三代目社長の雅介は自然環境の重要性を痛感し、これを広めるため草野河畔林トラスト財団を設立した。これらいずれも眞治の衣鉢(いはつ)をついだものといえよう。
 晩年は、石狩中央信用金庫(現・北海道信用金庫江別支店)理事長を務めた。信用金庫の車で用務の行き帰り、時々、作工の工事現場を覗く。若手の社員に声をかける。ネクタイを買ってやる。まるで作工の理事長のよう‥‥。
 これは男気とは関係ない。剛球で押しとおした仕事師のスローカーブである。頼んだことはかならずそれ以上やってくれた男の、一息ついた姿であろう。

(参考)
 「えべつの歴史―市民がつくるまちのれきし―」は、江別市総務部が1996年から通常毎年1回、江別市民からの寄稿を中心に江別の歴史にまつわる出来事や人物についての記事を編集・出版しているもので、この文が掲載された第24集は、令和5年2月に発行されました。
 また、「ユベオツの百人」は、江別市在住の郷土史家・藤倉撤夫氏が「ユベオツ(江別のアイヌ語名)」の発展に功績のあった歴史的人物百人を選定し、その偉業を小伝として連載しているもので、草野作工(株)の創始者・草野眞治はその連載で31番目の人物として紹介されたものです。
 なお、「えべつの歴史」は全巻、江別市情報図書館で閲覧できます。