大谷光信
〜既成概念にとらわれず、楽しくて美しい道をつくる〜 第1回
 文・フリーライター 柴田美幸

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右から2番目が大谷光信氏(出典:「道」1997年第3号)

 札幌市と洞爺湖方面、さらに道南のせたな町まで約150kmにわたって伸びる国道230号。札幌と洞爺湖町虻田(旧・虻田町)を結ぶ108.5kmに、後年、国道276号・37号・5号を組み入れて現在の長さになった。
 古くから道央と道南を最短で結ぶルートとしてあり、明治時代初期、東本願寺の現如上人(げんにょしょうにん)とその一行が「本願寺街道」として開削した道が元になっている。そのうち定山渓国道と呼ばれるのが札幌〜中山峠の区間で、定山渓から中山峠は険しい山道であり難所として知られていた。中山峠という名は、北海道開拓使長官・東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)とともに本願寺道路の検分に訪れた副島種臣(そえじま たねおみ)参議が、右に余市岳、左に札幌岳を望むことから名付けたとされる。
 その後、馬車道として整備されるが幹線道路としてはあまりにも険しく、新たに国内初の西洋式馬車道として札幌と函館を結ぶ札幌本道(現在の国道36号〜5号の一部)が整備されたことで、人通りが激減し荒廃したこともあった。
 この山道が再び大きな脚光を浴びるのは戦後のことだ。自動車が普及して観光道路という概念が生まれ、ドライブを楽しむ時代がやってきた。そのとき、自然景観を楽しみながらドライバーが快適に運転できる山岳道路に生まれ変わらせたのが、大谷光信である。

戦争中に実地で学んだ土木技術
 大谷光信は1928(昭和3)年、現在の当別町に3人きょうだいの長男として生まれた。ものづくりが好きだったことから、札幌工業学校(現・北海道札幌工業高等学校)土木科へ進学。しかし、ときは第二次世界大戦末期、日本の敗戦が色濃くなっていたころで、すぐに軍の施設建設へ動員される。十分な知識も経験もない学生を駆り出さなくてはならないほど状況はひっ迫していた。
 大谷は陸軍航空本部に所属し、たった2週間ほど講習を受けてすぐに軍の飛行場建設の現場に出された。道内では計根別(けねべつ)(現・中標津町)と浜頓別の飛行場の測量を担当。さらに本州へ渡り、千葉の滑走路建設の測量や、東京・八王子市浅川の戦闘機組立工場建設の測量を担当する。この工場は空襲に備えてトンネルの中に建設するため、熱海でトンネル工事の講習を受けて挑んだ。だが、ほどなく1945(昭和20)年8月に終戦を迎える。このとき大谷はまだ17歳。実地で学んだ多くの知識と経験を手土産に、北海道へ帰ることになったのである。

進駐軍に見せつけられた技術の差
 一度、当別の実家に戻った大谷だったが、帰郷後すぐの12月、北海道庁土木部道路課に職を得る。おもな仕事はアメリカ進駐軍の司令に従って道路整備を行うことだった。ついこのあいだまで敵だった米軍と戦う施設を造っていたのに皮肉な話である。進駐軍からの要求は、なかなか厳しいものだったようだ。
 たとえば、あるとき5万分の1の北海道地図を渡され「荷重制限がある橋を1週間ですべて洗い出せ」と命令された。だが、当時はほとんどが木橋で、重いトラックが渡れる強度があるかどうかなど判定したこともない。しかも、広い北海道じゅうの橋を1週間ですべて調べるなど無理な話だった。そう進駐軍に伝えても「早くやれ」の一点張り。結局、大谷たちは全部の橋にバツを付けて提出した。進駐軍からは「実際に通っているところがあるじゃないか!」と言われたが、「落ちてもしょうがないんです」と答えたという。
 またあるときは、進駐軍の基地があった札幌と千歳の間を「冬でもトラックで走れるように砂を撒け」と命令された。途中の島松沢には6.7%以上の勾配があり、雪が降るとトラックが上れなくなっていたのだ。ところが、ダンプの後ろに乗ってスコップで砂を撒きながら坂の上まで行くと、最初に撒いたところにはすでに雪が積もっているという有様。見かねた進駐軍が貸してくれたのが砂撒き装置が付いたトラックだった。円盤が回転しながら砂を撒く仕組みで、ちょうど車の幅に砂が撒けるようスピードで調節できるようになっており、そんな機械を大谷たちは初めて目にした。1台では足りなかったので、機械をスケッチし見よう見まねで砂撒き装置を自作。ところが、回転が早すぎて砂はあらぬ方向へ飛んでいってしまった。
 「真駒内から札幌市街地までの川の堤防上の舗装を2日でやれ」と命じられたときは「20日の間違いじゃないか」と思ったそうだが、結局、進駐軍がグレーダーなどの重機を駆使して予定通り2日で完了させた。大谷は、日本ではまだ珍しかった重機のパワーと整備方法を目の当たりにし、海外との技術の差をまざまざと感じた。
 そして、進駐軍とやりとりするには英語が必須であり、資料の項目だけでも読めなければ仕事にならないと、英語を学ぶために北海短期大学(現・北海学園大学)の夜間に通い始める。授業は英米文学の読解が中心で、期待していた実用的な英語ではなかったようだが、入学した設営経済科には土木や建築の講義もあり、元・室蘭工業大学教授から土木概論を学ぶことができた。大谷は、仕事が終わったあとの夕方5時から夜9時まで、2年間真面目に通った。

世紀の大工事に関わって得た教訓
 1951(昭和26)年、北海道開発局が発足。大谷は道庁から開発局の建設部道路課に移り、道路改良の場所を決めたり予算をつけたりする企画係に配属された。
 そして翌1952(昭和27)年、前代未聞の大工事がスタートする。工事の陣頭指揮を執ったのが、北海道開発局 札幌開発建設部の初代部長となった髙橋敏五郎だ。進駐軍の要求により、札幌〜千歳間の全長34.5kmをたった1年で舗装するという改良工事で、翌年、札幌〜千歳間は戦後初の本格的な自動車道路として開通。積雪寒冷地に適した画期的な舗装技術を用いたことで、現代道路史に大きな功績を残した。
 この大工事に大谷は測量で関わった。全体を3工区に分けたうちの月寒〜輪厚を担当し、1953(昭和28)年に全道路が完成したあとは、アスファルト舗装や法面などの維持管理を3年ほど担当する。髙橋からは「1日2回、パトロール(見回り)ではなくインスペクタ(検査)しなさい」と指示され、当時所属していた札幌出張所の2階に寝泊まりし、もう一人の職員と交代で行った。いちいち車を降りて見て歩くと時間がかかり過ぎてしまうため、走りながら見て危険な部分を判定できるようになったという。雨の日は土の水分量が上昇し、道路に降った雨も流水となって、法面(のりめん)や路肩が崩壊しやすい場所があったため雨音で目が覚めるほどだったと言い、気の抜けない日々だったことがうかがえる。
 この経験は、大谷に一つの教訓を残した。「作ってから手間のかからない道路の建設」を考えるようになったのである。風雨の侵食を受けにくく、最初から補修が簡単な道路にするにはどうすればよいか。その答えが、次の大きな仕事で形となる。

「魔の山道」に新ルートを探る
 昭和30年代に入ると、かつて東本願寺の一行が開削した札幌と函館方面を最短距離で結ぶ道は、幹線道路および産業道路として、また、支笏洞爺国立公園を縦貫する観光道路としても脚光を浴び始める。1953(昭和28)年に本願寺街道から国道230号となり、自動車の交通量が増加したことで改良が望まれた。

 1958(昭和33)年、札幌開発建設部の管轄である定山渓国道(札幌〜中山峠)のうち、札幌〜定山渓間が着工。設計と監督を大谷らが担当した。洞爺国道(留寿都村三ノ原〜旧虻田町)、中山国道(中山峠〜三ノ原)も、それぞれ管轄する室蘭と小樽の開発建設部によって着工された。
 最後まで手を付けられなかったのが、定山渓〜中山峠間17.4kmだ。距離は短いが山岳地であり、標高が320mから850mと500m差もある険しい難所である。とくに札幌側の薄別(うすべつ)から中山峠までの約8kmは「魔の山道」と呼ばれていた。12%以上の勾配があるうえカーブが100か所以上連続し、見通しの悪さから自動車の転落事故が跡を絶たなかったのだ。さらに地質も悪く工事の難航が予想された。

夏の中山峠(標高500m付近)(出典:定山渓国道のパンフレット(昭和40年代;北海道開発局))

 1961(昭和36)年、いよいよ難関部分の工事が決定する。そのとき大谷は、前年に開設された簾舞(みすまい)道路改良事務所の副所長のような立場にあった。実は、今の道をそのまま改良してもダメだと所長が判断していたため、別のルートを探そうと、すでに所長とともに現地調査を行っていた。夏場は笹が生い茂りなかなか進めないので、冬にスキーを履いて山を歩き回った。
                               

中山峠の現地調査状況

 結果、峠の頂上を越えるのではなく、峠の下を行くほうが最短距離であり自動車道として最適と大谷は結論づける。ところが、「ばか。中山峠の頂上へ上がらない計画を出しても、誰もうんと言わないぞ」と所長に一蹴されてしまう。なぜなら、頂上からは羊蹄山や山々が連なる大パノラマの風景が望め、観光に大きな役割を果たしていたからだ。頂上には観光客を当て込んで売店が作られ、峠の反対側を担当する小樽開発建設部はすでに頂上に向け舗装を開始していた。
 大谷らは3年ほどをかけ、冬場を中心に新しいルートを探った。積雪が5mにもなる山間部で雪崩や吹き溜まりがどこで起こるか、スキーで歩き回りながら徹底的に調査。春先は冬眠明けのクマに怯えながら歩き、猟師を伴うこともあったという。
 ルート案は、航空測量による正確な等高線が入った地図上で路線設計を行うペーパーロケーションと、現地調査で収集したデータから練られた。大谷は、札幌〜千歳間道路を維持管理した経験から勾配は5%以下にしなければ積雪時にトラックなどの大型車が上れなくなり、立ち往生してしまうと知っていたため、最急勾配5%という基準を厳格に決めて合うルートを探した。
 最終的に、大谷らは3つのルート案を作成する。1つ目は現在の道を改良する案。2つ目は豊平峡を通る案。3つ目は難所の薄別からトンネルを掘って抜ける案である。現道案は上層部の考えだったが、勾配がきつすぎるので却下。最有力だった豊平峡案は豊平峡ダムの建設が決まったため断念。薄別案に決定した。
(第1回おわり)

<参考文献>
「土木計画業務支援入門」社団法人 北海道開発技術センター(原口征人)
「定山渓国道 雑感」大谷光信(「かいはつ」vol.38 開局25周年特集号)北海道開発局
「定山渓国道」パンフレット(昭和41年・昭和43年・昭和45年)北海道開発局札幌開発建設部
北海道開発局札幌開発建設部ウェッブサイト 学びの広場「本願寺街道」
『本願寺街道・定山渓国道物語』北海道道路史調査会
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会