大谷光信
〜既成概念にとらわれず、楽しくて美しい道をつくる〜 第2回
 文・フリーライター 柴田美幸

公開

自由で負けず嫌いな所長の誕生

 1964(昭和39)年、開設された定山渓道路改良事務所の所長に大谷が就任し、いよいよ工事が始まった。大谷が集めた技術者は平均年齢26歳と若く、得意分野を持つ優秀な人ばかりだった。長期間宿舎に泊まり込みで作業するわけだが、大谷は彼らを規則で縛らなかった。消灯時間を決めず各人のペースで仕事をすることを認め、麻雀も禁止しないなど自由にさせたのである。そのため下から意見やアイデアを出しやすい、のびのびした雰囲気がつくられていたようだ。また、漆かぶれ防止として向かい側にあった薄別温泉から温泉を引き、環境を整えた。
 ちなみに大谷という人は、既成概念にとらわれない性格とともにかなりの負けず嫌いだったらしい。事務所対抗の野球大会が開かれた際には、大谷自らピッチャーを務め「絶対負けたらダメだ!」と檄を飛ばしたという。公私の区別なく、なにごとにも一生懸命なところが部下に慕われたのだろう。
 そんな大谷は、誰もが敬遠する難所続きの山道に可能性を感じていた。約20kmも人家がなく「考え方によってはいろんなことができる場所」と捉えていたのだ。当時、このような山道に道路を建設した例は阿寒横断道路くらいしかなかった。大谷は自身の考えを大胆に取り入れた、これまでにない道づくりを次々と実践していく。

曲線を駆使した美しいデザインへのこだわり

 大谷の考えは、4つの特徴として表れている。
 1つ目は「クロソイド曲線」の採用。直線からカーブに入るときにハンドルを切ると、自動車は渦巻きの軌跡を描く。これをクロソイド曲線と言い、この曲線に合わせて道路をつくれば、急ハンドルを切ることなくスムーズにカーブを曲がることができる。ただ、当時はまだ平地で部分的に採用した例しかなかった。「そんな山の中に…」という声に、大谷は「山の中だからやるんだよ」と毅然と答えた。安全に運転できるのであれば絶対に採用すべき、と考えたのだ。
 クロソイド曲線には、地形に合わせて自在に設計できるという利点もある。崖などを回り込むように道路の線形をつくることが可能で、余計な構造物を造る必要がなく、変更が出ても微調整で済むなど設計面でもいいことだらけだった。こうして定山渓国道は、道内で初めてクロソイド曲線を全線に取り入れた山岳道路となった。

クロソイド曲線が取り入れられた山道(出典:定山渓国道工事誌)

 2つ目は美しい構造物。大谷は、写真集や雑誌に掲載されたフランスやイタリアのアルプス地方など海外の山岳道路を参考に、機能性とデザイン性を併せ持った橋やトンネルを技術者とともに手掛けていく。たとえば無意根むいね大橋は、当時の北海道では珍しかった、曲線の橋が連なり大きな弧を描く形式である。円柱の橋脚も含め、温度変化や地震などの影響を受け流す構造でありながら、まわりの自然環境と融合するデザインとなっている。橋は直線というのが常識だった時代に、「すべての道路建造物は特別の理由がない限り子孫に引き継ぐべき財産を造っているのであって、道路技術者は同じお金で、見た人が美しいと感ずるものを造る義務がある」という大谷の考えから生まれたかたちだった。

無意根大橋のデザインスケッチ(出典:定山渓国道パンフレット)

美しい曲線が印象的な無意根大橋(出典:道路情報館)

 定山渓トンネルと薄別トンネルもユニークだ。定山渓トンネルは、開口部の側面にガラスブロック(現在は強化プラスチック)のルーバー(採光窓)を作り、自然光を取り入れるようにした。トンネル内部へ向かうにつれその面積を減らし、ドライバーの目を徐々に暗さに慣らす工夫がされている。参考にしたのはアルプスのトンネルだったが、フランスの設計会社に材質など仕様を問い合わせたところ、情報提供に3000ドルもかかるという。そこで、ガラス業者から使い道の相談があったガラスブロックを採用。道内でのトンネルへのルーバー導入の先駆けとなった。
 また、少し上に反ったゆるやかな曲線のデザインも、直線的な開口部が一般的な中で異彩を放っている。これは、断面が二次放物線のアーチ状で、さらに徐々に上に反っていくラッパ型にしたもので「構造計算するのにえらい苦労した」そう。放物線を基調にするというのは、スペインの「サグラダ・ファミリア」を手掛けた建築家・ガウディの設計思想とも通じるものである。

定山渓トンネルのルーバーの坑口(開口部)(出典:道路情報館)

 薄別トンネルの中山峠側の開口部は、横からみるとワニの口のようなユーモラスな形をしている。このデザインは、崖からの雪崩で開口部が塞がれないよう考案された。「屋根をつければ、雪が勝手に落ちていくのではないか」という現場のアイデアを元に、設計担当とともに模型を3回も作り直してたどり着いた形で、雪崩を切り裂き両側に雪が落ちるよう上に反ったフォルムとなっている。横がえぐられているのは構造的な理由とコスト面からのようだが、緩和照明の役割も持っている。まさに、デザイン性と機能性が融合した好例である。

ワニが口を開いたように見える、薄別トンネルの坑口(出典:土木計画業務支援入門)

景色を楽しみながら安全に走るための工夫

 3つ目は景色が楽しめる道路。無意根大橋より先は急峻な崖が続き、上からの落石や雪崩の危険が大きいため、道路に覆いをほどこす覆道ふくどうが配された。それが薄別うすべつ回廊と仙境せんきょう覆道である。回廊は崖に沿って削っていきながら建設され、現在は生い茂った木々に埋もれて山と一体化して見える。谷側は柱のみで壁がなくオープンになっており、景色を楽しみながらの運転が可能だ。続く覆道は、谷側が柱もなく完全にオープンになった片持ちばりという構造である。大谷は回廊と覆道をオープンにした理由を、谷間の見事な紅葉を見られるようにするためだったと語っている。

無意根大橋の曲線から薄別回廊(出典:北海道道路史)

吸い込まれるようになめらかにつながる(出典:定山渓国道工事誌)

 覆道はデザイン面でも美しく、上部が曲線になった優美なフォルムが特徴的だ。片持ち梁は上部が直線的なものが一般的だが、ここは雪の多い山間部。除雪のロータリー車が雪を飛ばす際にぶつからないよう、放物線に合わせた形にしたのである。また、ただ斜めに上げた場合は吊るものや柱が必要となる。余計な構造物は造らないという大谷のポリシーから生まれたこだわりのデザインであり、このような美しいシェルター施設は、現在もほかに例がない。

谷に面したほうに柱がない片持ち梁の仙境覆道(出典:道路情報館)

 大谷が後年「道路工作物は北海道の道路として常に雪を考え、側溝の枡のつけ方一つにしても、融雪期のことを考慮して工夫した」と述べているように、雪対策を第一に考えた初めての山岳道路となった。また、札幌〜千歳間道路ではタイヤチェーンに対抗できるアスファルトの量が多い舗装を目指したが、勾配が急な山岳道路では表面が滑りやすくなり適さないため、スリップしにくい粗い路面の舗装を研究し採用した。

 4つ目が自然環境との調和。これはかつての上司・髙橋敏五郎の、「道路は公園と同じで通ることによって心がなごむよう造られ、維持されなければならない」という考えに基づいている。国立公園の中を通すため、伐採する木を最小限に抑えるなど環境への配慮を忘れず、構造物のデザインのほか道路そのものにも数々の工夫が凝らされている。
 そのひとつが傾斜の緩やかな法面だ。これによって視界が広く見え、まわりの風景が自然とドライバーの目に入ってくる。盛土の道路では、もし誤って自動車が落ちても、法面の傾斜が緩やかなら自力で戻ってこられる。そして芝草を植えることで風景に馴染ませた。本当は野生の在来植物の移植を考えていたようだが、施工時期と土質の関係で断念。現在は在来の植物が根付き、道路がもともとの自然の中にあるように溶け込んでいる。

緩やかな傾斜で植物に覆われた切土の法面(出典:土木計画業務支援入門)

 こうした法面の工夫には、札幌〜千歳間道路での苦労が反映された。雨の侵食で崩壊しやすい法面の修復に明け暮れた日々を踏まえ、手のかからない方法を模索したのである。崩壊は、切土や盛土をしたときにできる法面の角ばった部分(のり肩)から起こる。だったら最初から侵食された状態にすればいい、というのが大谷の出した答えだった。土でできた法面は、侵食されるとだんだんのり肩が丸みを帯びて潰れた状態になる。そこで、のり肩をあらかじめ丸みをつけて切り落とすことで解決を図った。さらに、法面に植えた芝草が崩壊を食い止めてくれる。コンクリートで固めてしまう方法もあるが、景観上の問題と、壊れたときのコストや直しやすさを考えると植物にまさるものはなかった。

 路肩にも同じような工夫が凝らされた。工事現場から出た石や岩を、皿型の側溝と切土の縁石として有効活用したのである。天然の石材は風景に馴染み、捨てる手間も省ける。また、当時の標準的な側溝はU字溝だったが、そこにタイヤが落ちると抜け出すのに一苦労だった。大谷は「あれくらい交通の邪魔になって役に立たない側溝はない」と一刀両断している。ちなみに、師匠の髙橋もU字溝が大嫌いだったとか。石積みは建築資材の札幌硬石を扱う四国出身の石工職人が担当し、その丁寧な仕事ぶりに大谷は高い信頼を置いていた。

路肩の石積みの側溝(出典:土木計画業務支援入門)

道路を市民が楽しめる公園のような場へ

 構造物のうち、橋梁はデザインだけでなく色彩も考慮された。色彩コンサルタントから助言をもらい、7つある橋のうち見えやすい渓明大橋を黄色、無意根大橋をピンクがかった色に塗装。また、7橋の名前は公募で付けられた。公共の橋の名の公募はこれが道内初である。
 大谷がこうした前例のないことに取り組んだのは、国道は市民のものという意識があったからだ。「国道は幹線道路であると同時に、地域住民の生活道路でもある。国立公園内の国道はもっと住民を楽しませるような施設を併設すべきであろう」と語っている。
 たとえば、バーベキュースペースを設置する構想を大谷は持っていた。発想の元は、工事中の現場で月1回楽しんでいたバーベキューである。旧道から肉の冷凍車が転落したときは、崖に丸々1本落ちていた牛の足を引き上げ、ステーキ用の網を作り毎日食べていたという。標高800m以上では蚊が少なく、景色も素晴らしいためバーベキューにはもってこいの環境だった。大谷は、竣工間際にこっそりバーベキュースペースを作ろうとしたが、「これ以上余計なことをする気か?」と上にバレてしまい断念したとか。もし実現していたら名所になっていたかもしれない。
 ほかにも、路側に駐車帯を作ることや、家族団らん用のベンチの設置、ゴミの処理施設などを考えていたという。さらにブレーキが故障した際に停止させるための側道の設置など、予算の都合で実現できなかったことが多々あって「考えたことの80%程度の仕上がり」と、のちに述べている。

 1969(昭和44)年10月3日、7年の歳月をかけた定山渓〜中山峠間17.4kmのルート開削と舗装工事が完了し、ついに国道230号は全線開通した。 開通式が無意根大橋のたもとで華々しく行われ、3万6千台もの自動車が押し寄せた。そして札幌〜喜茂別間の66kmが深夜まで渋滞したという。
 晩年の大谷は「道路って楽しく走るべきものですよね」と語っている。基準があるからこれでいいという考えで道路を作るのは良くないのではないか、と。それは、都市の景観や道路の美しさ、なにより運転する人のことをまったく考えず、机上の計算だけで道づくりをしようとする技術者への戒めだったのだろう。ドライバーがストレスを感じることなく、快適に走ることができる道づくりを実践した大谷の信念は、次の一言に表れているのではないだろうか。
「ひょんなことで腹の立つ道路を造ったらだめなんです」
(完)

〈参考文献〉
「土木計画業務支援入門」社団法人 北海道開発技術センター(原口征人)
「定山渓国道 雑感」大谷光信(「かいはつ」vol.38 開局25周年記念特集号)北海道開発局
「定山渓国道」パンフレット(昭和41年・昭和43年・昭和45年)北海道開発局 札幌開発建設部
北海道開発局 札幌開発建設部ウェブサイト 学びの広場「本願寺街道」
『本願寺街道・定山渓国道物語』北海道道路史調査会
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会

※ほか、社団法人 北海道開発技術センター・原口征人氏による大谷光信氏へのインタビュー資料をベースにしています。