友成 仲 〜不毛の地を水田に変えた、長大な水の路〜

友成仲(北海土地改良区 所蔵)

人生後半で携わった大仕事

北海道一の大河・石狩川流域に広がる石狩平野。そのうち空知地方には、日本一の長さを誇る農業専用の用水路が流れている。「北海幹線用水路」は、石狩川中流域左岸の赤平市から南幌町まで7市町にまたがって延び、総延長は約80kmに及ぶ。現在も、毎年5月から8月末までの4カ月にわたって最大毎秒44トンもの大量の水を空知川から取水し、石狩平野の水田を潤している。
この巨大な用水路は、1924(大正13)年に着工してから4年ほどという、まれに見る短期間で完成。まだ重機もなく、ほぼ人力で掘削していた時代のことだから驚く。それから100年たらずで、北海道ひいては日本を代表する米どころが出現した。
この北海幹線用水路を含む、空知地方の「3大幹線用水路」と言われる大規模な農業用水路建設で大きな役割を果たしたのが、主任技師として携わった友成仲(ともなり なか)である。それも、50歳を過ぎ人生の後半にさしかかってからやり遂げた大仕事だった。

北海幹線用水路(北海頭首工)の現況(北海土地改良区 所蔵)

友成仲は、1857(安政4)年に江戸で生まれた。父は、鉄砲の火薬の製造や管理を担当する玉薬(たまぐすり)奉行だったという。1879(明治12)年、22歳で工部大学校(現東京大学工学部)に私費で入学し、イギリス人教師から6年にわたって工学の専門教育を受ける。1885(明治18)年の卒業時には28歳を迎えようとしていた。
友成と北海道の関わりは、その後、当時の農商務省御用掛(がかり)として、北海道事業管理局の炭礦鉄道事務所に勤務したのが最初である。翌1886(明治19)年、北海道庁の設置により北海道庁技手となり、北海道鉄道事務所で鉄道建設課長や所長心得として勤務した。

このように、友成の初期の仕事は鉄道関係が中心だったようだが、詳しいことはよくわかっていない。1889(明治22)年には在職のまま視察のため自費で欧米へわたり、帰国後は内閣および内務省の辞令により山梨などで仕事をしていたようだ。そして1905(明治38)年、48歳で退官。叙勲を受け恩給も付き、人生もひと区切りついたかのように見える。しかし、友成のエンジニアとしての第2の人生が、まさにここから始まろうとしていた。

大用水路で、泥炭地を水田へ

岡崎文吉の項でも述べたように、石狩川流域の石狩平野には泥炭地が広がり、農業には不向きだった。農地として利用するためには、治水を含めた土壌改良が必要となる。また、それ以外の肥沃だった土地は、開拓初期に肥料を施さず畑作を行ったため土地が痩せ、入植者は次々とほかの肥沃な土地へ移っていくので農地不足になりつつあった。不毛の泥炭地を開墾地へ変えていくことは、北海道の拓殖の推進には不可欠だったのである。
こうした問題を解決し、北海道を国の食糧基地とするために奨励されたのが稲作への転換だ。1902(明治35)年に「北海道土功(どこう)組合法」が制定され、水田を作るためのかんがい排水開発に公的資金などの助成が受けられるようになり、道内各地で開発を担う土功組合が設立された。
1909(明治42)年、石狩川右岸の深川町・一已(いちやん)村(現深川市)・妹背牛(もせうし)村(現妹背牛町)に広がる雨竜原野の5,000haを水田とするため、深川土功組合が設立。石狩川を水源とするかんがい用水路が計画された。友成はその主任技師として招へいされ、これを機に再び北海道と関わりを持つことになる。1912(明治45・大正元)年、54歳のことだった。
 1916(大正5)年に竣工した道内一の大規模な用水路は「大正用水」と名付けられ、のち「深川幹線用水路」となる。さらに友成は、1918(大正7)年に空知土功組合の主任技師に招へいされ、滝川村・江部乙村(現滝川市)・音江村(現深川市)にわたる4,100haをかんがいする「空知幹線用水路」を担当。1922(大正11)年に約29kmの用水路を完成させた。

そして、友成が手がけた3つ目の大仕事が「北海幹線用水路」である。先の2用水路工事の実績を買われ、空知幹線用水路の工事終了を待って北海土功組合に招へいされた。
 1922(大正11)年に設立された北海土功組合は、石狩川左岸の砂川町(現砂川市と奈井江町)・沼貝村(現美唄市)・三笠山村(現三笠市)・岩見沢町・栗沢村・北村(現岩見沢市)・幌向村(現南幌町)にわたる2万6,000haをかんがいするため、82kmという国内ではそれまで例のない長大な用水路を計画。赤平村(現赤平市)に頭首工を設けて空知川の水を引き入れ、自然の傾斜で流れるように設計された。約80kmある始点と終点の落差はたった28m。この平坦に近い傾斜で自然流下を実現したのは、驚異的な技術である。

北海土功組合灌漑(かんがい)水路平面図(北海土地改良区 所蔵)

実は、友成はこの招へいをすぐに了承しなかった。高齢を理由に自身の体力が持つかどうか、迷惑がかかるのではないかと考えていたようである。だが、周囲の説得もあり1923(大正12)年、66歳で主任技師に就任。1924(大正13)年、「東洋一の大灌漑(かんがい)溝」という期待を背負った大用水路がいよいよ着工した。

ベテランと若手で乗り越えた難工事

友成の右腕として活躍したのが、東京帝国大学農学部出身で、宮内省の官僚だった31歳の土木工学者・平賀栄治(ひらが えいじ)だ。書類を作るだけの役人ではなく、技師として現場で研鑽と積みたいと考えていた平賀は、大ベテランの友成のもとで学ぶことも多かったに違いない。

平賀による「北海かんがい溝工事の回想」という記録には、調査から工事、完成にいたるまでの苦労の数々が記されている。水路の設計で重要な路線選定の調査では、何度測量しても誤差が出てしまうので友成に報告したところ、自ら測量を行って平賀らの測量結果と比較し確定させた。「もとより下流全線に波及する水準測量なるゆえに慎重調査を要するは当然なるも、友成技師長自ら調査に従事された例は、私の知る限りにおいては前後を通じて無く歳若き技術者の奮起をうながした」という。
コンクリートに使用する当時貴重だったセメントの調達も、品質が一定ではなかったため問題だった。友成はセメント会社と直接契約し、規格に準じた品質の良いものだけを使うことにした。その点検を行うのは平賀の役目で、あるとき施工に間に合うよう朝3時から試験を行い、4時に就寝中の友成を訪ねて決済を仰いだ。友成は「その心情に敬意を表する」と平賀を褒めた。

平賀栄治(北海土地改良区 所蔵)

完成時のパンケウタシナイ水路橋(北海土地改良区 所蔵)

工事中のパンケウタシナイ水路橋(北海土地改良区 所蔵)

特に難工事だったのが、頭首工のある赤平から美唄の区間である。泥炭地を掘削して出る捨土は、かなり遠くに捨てないとその重さで平らに戻ってしまう。高低差を測る水準器も板の上に三脚を乗せないと沈んでいき、正確に測れないほどだった。
さらに、鉄道の線路や川を横切らなければならないところも多くあった。たとえば、歌志内線(当時)とペンケウタシナイ川では鉄筋コンクリートの橋を架けて水路を通した。美唄川と交差する地点では、湾管(わんかん)という導入管を使い、水圧を利用して低い位置の水を高い位置まで引き上げる逆サイフォンの原理で、川の下に水路を潜らせた。

美唄川を横断するための、コンクリート造りの逆サイフォン(北海土地改良区 所蔵)

逆サイフォンの工事状況(北海土地改良区 所蔵)

美唄川の湾管工事では、用地をめぐって諍いも起きている。小作地を潰してはならぬと、農民がスコップを持ち掘削場所を埋め戻し始めたため、怒った作業員と乱闘になったこともあった。
工事は結氷して水位の下がる冬を中心に行われ、作業小屋を建ててストーブをたき、マイナス20度の寒さをしのぎながら進められた。平賀は除夜の鐘を現場で聞いたという。
このような苦難を乗り越え、1929(昭和4)年、北海幹線用水路はついに完成。予定より1年あまり短縮した4年4カ月で工期を終えた。仮通水の日には、水が届いた合図に各所で花火があげられた。

厳しい冬期工事の様子(北海土地改良区 所蔵)

完成した空知川頭首工。調節水門は5つあり、ハンドルで水門を開閉していた(北海土地改良区 所蔵)

今も流れ続ける水の路

平賀は回想録の中で、「我国でも稀な大かんがい工事」であり、誰も経験を持たない特殊なものだったとし、「技師長の保有された体験談とその圧力とには動ぜられた」と振り返っている。平賀のような新進気鋭のエンジニアは、幾多の経験を積み上げたベテランエンジニア友成のもとで力を発揮し、用水路の完成へと導いた。そして、過酷な環境下で人力での作業に従事した大勢の人々がいたことも忘れてはならないだろう。
1930(昭和5)年、友成は職を辞し東京へ戻った。長年の疲れからか病を得た友成は、翌1931(昭和6)年に死去。享年75歳であった。
友成たちが汗を流して作り上げた用水路によって泥炭地への造田は進み、石狩平野を一大穀倉地帯へ変えた。その水は今も脈々と流れ続けている。

現在の頭首工は、改修が行われ昭和41年に完成。名称も「北海頭首工」に改められた(北海土地改良区 所蔵)

<参考文献>
『北海土地改良区八十年史』北海土地改良区
「技術協 第67号 2002年3月」北海土地改良設計技術協会
「THE JR HOKKAIDO No.292 2012年6月号」<米どころ石狩平野を造った仰天発想> JR北海道
「ほっかいどう学 連続セミナー 第1回」2020年1月25日レジュメ

なお、本稿の執筆に当たりましては、北田久志様(国土交通省北海道開発局農業水産部調整官)、高柳広幹様(北海土地改良区技術部岩見沢事業所長)ならびに、中村和正様(国立研究開発法人土木研究所寒地土木研究所寒地農業基盤グループ長)から資料の提供、多大なるご教示を頂きましたことを感謝とともに申し添えます。

 

(文責:フリーライター 柴田美幸)