岡﨑文吉
~石狩川の流れに、理想の川の姿を求めて~ 第2回  文・フリーライター 柴田美幸

自然主義に基づく治水の思想

流量がわかったところで、いよいよ河川改修に取りかかるわけだが、ここでも岡﨑は独自の思想を持っていた。その考え方を、のちの1915(大正4)年出版の論文集『治水』の中で「自然主義」と名付けている。岡﨑は、北海道の河川を「原始的河川」と定義した。それは「いまだかつて護岸、水制、切開、堤防等のような水理工事を加えず、天然のままに放置されている河川」であり、文字通り手付かずの自然のままの川のことである。
開拓が進むとともに、無計画に川やそのまわりの自然に手を加えることは、かえって水害を引き起こす要因になると岡﨑は考えていた。『治水』では、「自然を教師とすることを忘れ、自然の法則に従うという重要なる原理を無視し、多くはかえって、自然の法則に逆行するような誤った工事を施工」していると述べており、「いやしくも良好な河川状態を破壊し、将来除却を要するような、自然の法則に違反する工事を施すことなく、当初より自然の模範に従い、合理的にしてかつ実際的な工法を採用し、最も経済を重んじて原始的河川を治めることにある」というのが、岡﨑の理想とする治水の姿だった。こうした考え方は、石狩川を始め多くの河川の長年の観察および欧米の河川改修の視察や理論から導き出されたようである。

1909(明治42)年、岡﨑は、調査結果や自らの思想に基づいた「石狩川治水計画調査報文」を道庁に提出。4つの案を示したが、洪水時に氾濫しやすい蛇行した部分(篠津・生振[おやふる]間)を直線化してショートカットする案ではなく、蛇行した部分に放水路を設け、洪水の際には川から溢れた分の水が流れる「放水路方式」を提案した。この案は、自然の川の状態を極力生かすという岡﨑の思想を最も具現化したものと言えるだろう。

 

岡﨑の放水路案「石狩川篠津・生振間放水路線平面図」。蛇行した部分が放水路とつながっている(出典:「石狩川治水計画調査報文」)

翌1910(明治43)年、人口300万人と大規模な農地開発を目指した「北海道第一期拓殖計画」が始まり、石狩川の治水事業が開始となる。岡﨑は初代の石狩川事務所長に就任。明治32年の調査から10年が経っていた。

 

ヨーカン・ブロックと生振捷水路

治水工事では、河川湾曲部の河岸に面した土地が、流水によって削りとられることをまず防ぐ必要があった。解決策として岡﨑が考案・開発したのが「岡﨑式単床ブロック」である。長さ61cm、一辺が15.2cmの長方形のコンクリートブロックをいくつも作り、中央に開けた2つの穴に鉄線を通してつなぎ合わせ、河岸や河床にマットのように敷いて保護するという工法だ。たとえ河床が変化しても柔軟なので適応性があり、強度・耐久性が高く、施工も容易という多くの利点があった。これも、岡﨑の「自然主義」に基づいて生み出されたと言っていいだろう。そして、このブロックに似たものが同じころ海外でも開発されており、岡﨑の先見性がうかがえる。ブロックはその形から「ヨーカン・ブロック」とも呼ばれ、さまざまなサイズに変化しながら道内や全国、アメリカのミシシッピ川など海外の河川にも普及し、1970年代まで使用された。

石狩川での「岡﨑式単床ブロック」組み立てのようす(出典:「石狩川治水の曙光」国土交通省北海道開発局)

現在も石狩川下流の茨戸川に残る「岡﨑式単床ブロック」(北海道開発局所蔵)

ところで、こうした護岸工事は行われていたものの、放水路を主とする河川改修工事はまだ開始されていなかった。1917(大正6)年、岡﨑は放水路から、石狩川下流の対雁(ついしかり)・生振間を捷水路(しょうすいろ)へと計画変更する。蛇行部を直線化する、いわゆるショートカットへの変更は、どのような経緯でなされたのか明らかではないが、本流と放水路のどちらも維持するのに費用がかさむことが理由のひとつと考えられている。

翌1918(大正7)年10月、岡﨑が設計変更した捷水路計画はようやく着工する。対雁・生振間の5ヵ所の捷水路のうち、最初に着手したのが生振捷水路で、河道延長18.2kmを捷水路延長3.7kmの直線にショートカットするという北海道初の大工事だった。
だがこのとき、岡﨑の姿はもうそこになかった。同年に内務省勤務を命じられ、記念すべき石狩川最初の治水工事を見ることなく、6月に東京へ転出していたのである。岡﨑は「北海道を去る」という七言絶句の漢詩を詠み、16歳から30年を過ごした札幌に別れを告げた。しかし、岡﨑の計画は後進に引き継がれ、1931(昭和6)年に竣工した生振捷水路は、泥炭地を一大農地へ変えていく布石となったのである。

 

現在の生振捷水路。平成14年度の土木学会 選奨土木遺産に認定された(出典:国土交通省北海道開発局HP)

北の大地から遠く離れて

その後の岡﨑は、活躍の場を中国に移した。1920(大正9)年、中国政府から高級技術者として招へいされ、国際機構に所属して中国の東北地方南部を流れる遼河(りょうが)の改修を担当する。河口には国際貿易港があったが、上流から運ばれてくる大量の砂で港が埋まり、船が航行できなくなるという問題が起こっていた。そこで新しく水路を作ることで解決を図り、港を発展へ導いた。

1933(昭和8)年に満州国が建国されると、岡﨑は満鉄(南満州鉄道)経済調査会の顧問に就任するが、肺を患い、翌1934(昭和9)年に帰国。そして1945(昭和20)年2月4日、茅ヶ崎の自宅で静かにその一生を終えた。74歳だった。

岡﨑は、二度と北海道へ戻ることはなかった。しかし、技師としての岡﨑をかたち作ったのは北海道の地であり、石狩川の流れだった。そして泥炭地が一大農地となるまでに、物語は新たな人物へ引き継がれていくのである。(完)

第1回

<参考文献>

『流水の科学者 岡﨑文吉』浅田英祺(北海道大学図書刊行会)
『石狩川治水の曙光 ―岡﨑文吉の足跡―』北海道開発局
『石狩川百年の治水』鈴木英一・川村里実
『フロンティアに挑む技術 ―北海道の土木遺産―』公益社団法人 土木学会
『石狩川の流れ』久米洋三 編(石狩川開発建設部)
「石狩川の父 岡﨑文吉 ―未来を開いた治水計画と自然主義」鈴木英一(「土木學會誌」第103巻 第9号)
『豊平橋の歴史』亘 信夫(日本橋梁株式会社 札幌営業所)

なお、本稿の執筆に当たりましては、鈴木英一氏(伊藤組土建(株)代表取締役副社長)から多大なるご指導、ご鞭撻を頂きましたことを感謝とともに申し添えます。

(参考)石狩川の歴史について、さらに詳しく知りたい方はこちらがお薦め
「石狩川治水100年」(北海道開発局札幌開発建設部Webサイト)
www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd600000002ee.html

(文責:フリーライター 柴田美幸)