北海道ファンになった、いきさつ(第1話)
東京大学
名誉教授 篠原 脩

昭和41(1966)年の夏に北海道に渡って以来ずっと、今だに北海道ファンである。もう63年になるか。だから、なまじの道産子より北海道については詳しいと自負している。何せ付き合いは半世紀以上にもなるのだから。今回は初めて北海道に渡った時の事を語ろうと思う。

1)昭和40(1965)年前後の頃

何せ昔の話になるので、若い人には皆目見当がつかないだろうから、始めに時代背景の解説をしておこう。前回のオリンピックが東京で開催されたのが1964年だった。開幕式が代々木の国立競技場で行われたのは、快晴の10月10日。きちんと過去の天気を調べて、この日に決めたのだ。つまり晴れる確率が最も高かった日だったのだ。10月10日、成る程と思った人、あなたは正解です。10月10日ってなに?と思った人は手元の手帳かカレンダーで確かめて欲しい。何、分からない。そうかも知れない。今の祭日の決め方は誠にいい加減で、平気で日をズラしてしまう。今年のカレンダーでは14日(月)が「体育の日」となっている。13日(日)と続けて連休にする為に。体育の日は本当は10月10日で、それは東京オリンピックが開催された日を記念日にしたからなのである。連休にする事を優先して、つまりサラリーマンの人気取りを考えて、記念日を平気でズラすような国は世界の何処にあるだろうかと思う

1964年の10月10日は誠に良い天気だった。もう亡くなってしまったが、聖火ランナーだった坂井君が国立競技場の階段を駆け上がって聖火を点火をするシーンはこの頃よくテレビで放送されるから、若い人にも分かる筈である。小生は甚だマイナーの競技だったホッケーを見、後に女房になる女性は閉幕式を見物したそうです。

その10日前、10月1日もその後の日本にとってはオリンピック以上に重大な日だった。こっちはそう簡単には分からないか。「鉄ちゃん」なら分かる筈で、東海道新幹線開業の日なのだ。勿論、東京から新大阪まで。開業式でテープカットしたのは、新幹線生みの親だった十河信二(そごうしんじ)ではありませんでした。国鉄総裁だった十河は新幹線の建設費が当初計画を越えて、膨大に膨れ上がった事の責任をとって既に辞任していたのです。

2)大災害と復興

十河と言えば帝都復興か、と反応する人は都市計画、災害復興の歴史に詳しい人です。大正12(1923)年9月1日午前11時48分だったか49分だったか、東京、横浜は大地震に襲われる。これが後に「関東大震災」と呼ばれた地震でした。家屋が潰れたのは勿論だったが、昼時という火を使う時間帯だった影響で火災となり(当時庶民は、ひち輪で煮炊きしていた)、瞬く間に大火となって丸3日間燃え続けたのでした。死者行方不明はどの位だったと思いますか?。ヒントは1995年の阪神淡路大震災が6千人余、2011年の「東日本大震災」が2万人弱です。何と10万人以上だった。この地震で首都移転も話題となり、東京をどうするかが真剣に議論となったのだった。

今回の東日本大震災で復興がどうなるかと興味を持って見ていた。一時期講義をする為に関東大震災とその復興である「帝都復興事業」を勉強していたから。今回の東日本大震災の復興の為に復興庁ができたのはずっと後、確か1年以上経った頃ではなかったか。関東大震災復興の為の「帝都復興院」が出来たのは9月末で、地震発生の日からひと月も経っていなかった。復興院総裁は内務大臣の後藤新平の兼務、それまでに内務省で都市計画法の基礎を作ったり、鉄道院総裁を勤めたりしていたから、都市やインフラにつててはプロだった。適任者だったのである。

後藤は復興院を動かす為に気心の知れた、有能な部下を旧巣の鉄道から引き抜いて集めてきた。その1人が十河で、彼は東京帝大法科卒。その十河の推薦で土木の太田圓三が土木局長に、田中豊が橋梁課長となって復興事業を引っ張ったのだった。2人共東京帝大土木の卒業生だった。つまり、天皇を頂点に戴く戦前の大日本帝国の方が、戦後の民主主義日本よりも人事に関しては余程柔軟だったのである。今度の復興庁の人事は、と多少の期待を持って見ていると、トップはどっかの役所からの「天登り」で、復興にも都市計画にも全くの素人で、名前すら知らない人物だった。以下の幹部の人事も全くの同じの、役人の横すべり。その後、代議士の長官が暴言を吐いて辞任に追い込まれたのは周知のことであろう。復興の論理ではなく、役所の論理のみで動いた人事だったのだ。

帝都復興では、隅田川の六大橋(永代橋や清洲橋など)や今回再整備された東京駅丸の内広場、行幸通りなどの後世に残るインフラが整備された。復興が何を残したかという観点で見ると、阪神淡路大震災は何も残していないように見え、今回の東日本大震災で残るのは、今の処、女川の駅から海に延びるモールぐらいでしょうか。誠に淋しい、豊かな国、日本の現実です。

3)1966年夏の実習

東大の土木では、当時、3年生の夏に実習に行く事になっていて、真面目な学生はメーカーやジェネコンの現場を志望し、先を見ている学生は役所を狙っていた。小生はと言うと、まず行きたい所を考え、北海道を希望したのです。ただし求人は少なく(そりゃあそうでしょう、東京は遠いから)、担当教官が北海道開発局に頼み込んで実習先を確保してくれたのでした。札幌近くの美々の試験場と、利尻島の港、紋別の港湾でした。総勢五人で東京を出発したのが昭和41年の7月の深夜。同級生の佐藤君の家が持っていたブルーバードスリーエスといういい車で、何と国道4号線をひた走りに北上したのでした。酷い雨でした、まだ憶えている。何故国道か?って。まだ東北道はは出来ていなかったからです。

交代で運転して、翌日の昼には青森、そこからフェリーで函館へ、5号線を走って、札幌近くで美々行きの2人と室蘭行きの1人を降ろし、無事札幌入り。

4)当時の北海道の町と道路

夜に入った札幌の町は暗かった。人口は確か70万程度だったでしょう。何せ、1972年の冬季オリンピック前でしたから。ここの三平で初めてサッポロラーメンをたべ、それから国道12号で北へ。名寄で利尻に行く佐藤君を降ろし、寂しい公園に車を停めて1人で夜明かし。次の朝、名寄からオホーツク海に向って東へ、興部まで行って南下、紋別に無事着きました。

この頃からギアチェンジがスムーズではなく、鉄道の踏切では緊張しました(まだ名寄本線は健在だった)。後で分かったのですが、車の底が擦れてギアボックスに亀裂が入って油が漏れていたのです。何故そんな事になってしまったのか、分かりますか?。当時の北海道内の道路の殆どが砂利道で、車の底を擦って走っていたからなのです。いくら1960年代の昔とは言え、東京周辺では考えられなかった。紋別に行くまでも実習が終わった後にも、北海道を走り廻ったので、当時の道路状況はよく覚えています。舗装してあったのは、国道5号、12号と36号だった。他の道路は国道にしろ道々にしろ、全て砂利道でした。何と言っていたかというと、「算盤道路」と呼ばれていた。四つ玉の算盤を見てもらうと分かる様に、全て桁に玉が無い部分があって、それが横に続いているのです。道路がそうなっていて、道路の断面をとると必ず何処かに穴が空いていて、それが左へ右へと振れて連続する。そういう道路だったのです。ですから、僕は鍛えられて砂利道の運転は上手くなりました。東京ではオリンピックが行われていたのですが、北海道はまだ貧しかった。そういう時代だった。

5)紋別での生活

やらされた仕事は、深浅測量でした。船の底から音波を出し、それが海底からはね返ってくる。その時間を計って水深を出す訳です。港湾は漂砂によって浅くなっていくので、船が接岸できる様に水深を確保する必要がある。作業は単調。ただ船に乗って音波を出し、それが反射して、きちんと記録されているかどうかを見ていればいいのですから。ただしケーソンの据付は大変。陸上で造ったケーソンを水上に引き出し、それを船で曳航して所定の位置に沈めていくのですが、曳航中のケーソンはまだ中がガラン洞で、そこまでの深さが10メートル近くある。ケーソンの縁に立って底を見ると吸い込まれそう、反対のすぐ外を見ると深い海。チョット言い様のないスリルでした。

紋別港修築事務所の所長は宮崎大出身の技官で、言われたのは次のような言葉だった。「篠原君、開発局は良いよ。何せ、冬はマージャンをやっていれば良いんだから」。なぜか?。紋別港はオホーツク海の港なので、冬は流氷に閉ざされて船は使えないのだった。(続く)

 

東京大学名誉教授 篠原 修
博士(工学)
昭和43年 東京大学工学部土木工学科卒業
昭和46年 東京大学大学院工学系研究科修士課程修了; (株)アーバンインダストリー入社
昭和50年 東京大学農学部林学科助手
昭和55年 建設省土木研究所道路部主任研究員
昭和61年 東京大学農学部助教授(林学科)
平成元年 東京大学工学部助教授(土木工学科)
平成 3年 東京大学大学院工学系研究科教授(社会基盤学専攻)
平成18年 政策研究大学院大学教授、東京大学名誉教授
平成23年 政策研究大学院大学名誉教授、GSデザイン会議代表、エンジニア・アーキテクト協会会長;現在に至る

著書
「土木景観計画」、技報堂出版、1982;「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版、1985;「水環境の保全と再生」(共著)、山海堂、1987;「港の景観設計」(編、共著)、技報堂出版、1991;「橋の景観デザインを考える」(編)、技報堂出版、1994:「日本土木史」(共著)、技報堂出版、1994;「土木造形家百年の仕事」、新潮社、1999、土木学会出版文化賞受賞;「都市の未来」(編、共著)、日本経済新聞社、2003;「土木デザイン論」、東京大学出版会、2003、土木学会出版文化賞受賞;「都市の水辺をデザインする」(編、共著)、彰国社、2005;「篠原修が語る日本の都市 その近代と伝統」、彰国社、2006;「ものをつくり、まちをつくる」(編、共著)、技報堂出版、2007;「ピカソを超える者はー景観工学の誕生と鈴木忠義」、技報堂出版、2008;「新・日向市駅」(編、共著)、彰国社、2009;「まちづくりへのブレイクスルー 水辺を市民の手に」(編)、彰国社、2010;「河川工学者三代は川をどう見てきたのか: 安藝皎一、高橋裕、大熊孝と近代河川行政一五〇年」、農文協プロダクション、2018