北海道の道路整備 ~明治以降の国道整備の歴史~
一般社団法人北海道開発技術センター
理事長 山口登美男

1.2つのキーワード

北海道の本格的な道路整備は、明治時代になってから始まりました。整備の遅れていた北海道で、なぜ明治以降、道路整備を飛躍的に進めることが出来たのでしょうか。

このことを説明するために重要なキーワードが2つあります。それは、①国家プロジェクトとして計画的、組織的に進められたこと、②その計画に合わせて整備に必要な財源を確保することが出来たことです。財源については、当初は拓殖費支弁により整備が進み、その後も都府県に比べ国庫補助率の割合が高い好条件の中で整備を進めることが出来ました。

 

2.道路整備のあらまし

明治時代に入ったばかりのころの北海道は、道路整備はほとんど手つかずの状況でした。

本州の道路は、江戸時代までに5街道をはじめ町と町を結ぶ主要街道などの諸街道が1万キロメートル以上整備されていたのに対し、北海道の江戸時代までの道路は、アイヌがコタン間を往来するための道や、沿岸防備の目的から松前藩が依頼して場所請負人の出資などで整備した山道などがあるのみでした。

明治に入り、北海道開拓に当たり、開拓使は北海道の自然環境や歴史文化が道外と大きく異なることから、気候風土が似た国から開拓技術者を導入することとします。

明治4年(1871年)、北海道開拓の基本にかかわる重要な試みとして、アメリカの農務局長であったホーレス・ケプロンを団長とする開拓使顧問団を招き、開拓の予備調査を行うとともに、広く海外の技術を斟酌して開拓の方針を練りました。そして、明治5年開拓使10年計画を樹立します。

この計画は、明治5年から10箇年にわたる拓殖費の支出を1000万円(現在の約2千億程度)と決定し、北海道開拓の財政的基礎を確立したものであり、北海道において実施された最初の国の開発計画でした。

最初に記した2つのキーワード、国家プロジェクトとして計画的、組織的に進められた道路整備とその計画推進に必要な財源の確保は、この10年計画により、姿を現します。開拓使による北海道開発の積極的な取り組みが、その後の北海道開発に受け継がれ、着実なインフラ整備に繋がって行きます。特に、昭和27年(1952年)に「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」(いわゆる道路特定財源制度)が成立するまで、財源確保について苦労を重ねながらも、その時代、その時代ごとに開発計画を策定し、計画的に社会資本整備を進めてきたことは、忘れてはならない特筆すべき事項であると思います。

北海道の道路整備の費用負担について、もう少し詳しく見てみましょう。

旧道路法(大正9年4月施行)では、北海道以外の都府県では、国道、府県道は原則府県知事が管理をすること、さらに軍事用道路等一部の国道を除いて原則的に国道の整備も府県知事が行うこととされていました(国庫負担は1/2~2/3で残りは府県負担)。

これに対して、北海道は旧道路法と北海道道路令により、国道については新設・改築、維持修繕等すべて国庫負担とし、拓殖費等から支弁されています。

また、その他の道路についても拓殖上必要なものについては同様の取り扱いができることとなっていました。

昭和27年(1952年)に制定された新道路法にも、旧道路法の整備費用負担の考えは引き継がれています。これにより、北海道は都府県よりも国庫補助率の割合が高く、地方公共団体の財政に過度の負担をかけずに国道等の道路整備が進めることが出来、現在につながっています。

 

3.戦前期までの開発計画と道路整備

明治以降の開発計画に話を戻して、昭和の戦前までの開発計画の推移と、具体的な道路整備の進捗について見てみましょう。

(1)開発計画の推移

明治5年(1872年)に策定された開拓使10箇年計画のあとは、明治34年(1901年)から交通関連施設の整備などに取り組む北海道10年計画が策定されスタートしています。この計画期間には日露戦争などもあり、予算を確保できず計画通り実施できませんでした。

この反省を踏まえ、より強力な財源の裏付けが確保される「第1期拓殖計画」が明治43年(1910年)以降15年間で約7000万円(現在の約7千億円程度)の予算でスタートしています。第1期拓殖計画期間の財政については、計画初期は財政的に厳しい中で推移しましたが、後半は第1次世界大戦の好景気等で税収が増え、予算を増額して整備を進めました。

その後、昭和2年(1927年)からは第2期拓殖計画が、20年間で総額約9億6000万(現在の約4兆8千億円程度)の予算で始まっています。第2期拓殖計画では予算の約5割を社会資本整備にあてられ、幹線道路や主要都市間を結ぶ連絡道路、港湾、鉄道の新設や河川改修などが進められました。計画終了時には、府県並みとなることを目標にしましたが、第2次世界大戦により計画は途中で終わっています。

 

(2)道路整備の推移

次に、少し専門的になりますがそれぞれの計画期間等において、具体的にどのような整備が行なわれたのか見ていきましょう。

(a)開拓使10箇年計画時代(明治5年~14年)

開拓使10箇年計画では、屯田兵制度により象徴されるように計画の目的は、封建制度崩壊後の士族の救済と北辺防衛でした。この計画の具体的事業としては、札幌本府の建設に伴う街路建設や札幌本道開削(明治6年竣工)などが注目すべきものとしてあげられます。

「本府」とは、明治初年に北海道を経営するために、新たに建設された都市札幌をさし、都市を作るとともに、当時の行政官庁開拓使の庁舎を設置する場所を設営することも意味していました。

(b)北海道庁初期時代(明治19年~33年)

明治15年(1882年)には、本州の県政にならって3県が置かれ、その後事業の統一を図るため事業管理局が設置されました。しかしながら、北海道開拓の実情に苦慮した政府は、明治19年に県及び事業管理局を廃止して、新たに北海道庁を設置しました。

この時代は従来の直轄による開拓地植民政策を廃して、各種資源、工業、農地開発にさえも民間資本の導入を策し、国営事業は間接的助長策に向けました。

運輸交通施設などに重点が置かれた結果、この時代に内陸幹線道路網が急速に設定されたほか、原野各地には開拓植民道路がつくられました。また、これらの工事には多数の囚人が就役しました。

明治18年(1885年)には、国・県・里道の延長は1,200㎞程度であったのが、明治33年(1900年)には実際開削した総延長は5,560㎞に達しました。

「札幌~旭川」「旭川~網走」「旭川~富良野」「札幌~定山渓~虻田」などの幹線道路が改良整備され、今日の北海道内主要幹線道路網の骨格は大部分がこの時代に形成されました。15年間に5,460㎞の国、県、里道がつくられましたが、構造は極めて粗雑なものでした。

(c)10年計画時代(明治34年~42年)

この時代も、道路網の普及を主眼とし、質よりも量を尊び工費を抑えひたすら延長を伸ばすことを優先し整備が進められました。道路事業については、「留萌~北竜間」、「浜益~新十津川間」、「名寄~興部間」などの道路が着工実施されましたが、当初計画に対して、道路52%橋梁29%程度しか整備出来ませんでした。

国費修繕も予算不足のためほとんど実施されなかったので、新設の道路も数年後には、廃道に帰するもの続出しました。

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《コーヒーブレーク》~明治以降の道路構造について~
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ここで、当時の道路構造がどのようなものだったかを振り返って見たいと思います。
明治時代の道路構造は、国道であっても、道路を開削した後、地盤を人力で突き固めた程度の構造で、市街地の重要な道路の一部に10㎝程度の砂利が敷設される程度でした。このような構造であったため、雨期や融雪期にはどの道路も馬腹を没する悪路と化し、交通が途絶しました。
その後、道路構造令が大正8年に施行され、国道、府県道の幅員や勾配、曲線半径などが定められた他、国道、府県道については、道路構造として、自動車の本体重量を合わせて5.3t、4輪馬車であれば1.9t程度の輪荷重に耐えられる構造とすることが定められました。
しかしながら、延長を伸ばし地域と地域をつなぐことが求められる中で、また、予算の制約もあったことなどから、国道であっても構造令の基準通りに整備することは難しく、多くの道路は簡易な構造のままでした。
この時代は、自動車が全国で4,500台(大正8年)あるいは22万台(大正15年)と極めて少なく、道路交通の主体が牛馬車、荷車、自転車の時代であったことも記憶にとどめる必要があります。
その後、戦後になり自動車の急速な増加、大型化、高速化が進み、近代自動車交通に対応した道路構造基準の大幅改定の必要性が痛感されてきました。
その結果、昭和24年(1949年)から長期間にわたる専門家の検討を踏まえ、昭和33年(1958年)に新たな道路構造令が施行されます。これによって、我が国の道路の構造規格が明瞭に示され、近代的自動車交通の要請に応えることが出来るようになりました。
また、1953年(昭和28年)に道路特定財源制度がスタートします。これ以降財源の確保に目途が立ったことにより、計画的に新たな道路構造令に沿って整備することが可能となり、基準に合わせた道路の新設工事や既存の道路の改良工事が飛躍的に進みました。
道路構造令は、その後も自動車専用道路など新たな時代のニーズに対応するため改正されています。

(d)第1期拓殖計画(明治43年~大正15年)

第1期拓殖計画は、大正5年(1916年)の第1次改訂をはじめ数次にわたり内容改訂が行われましたが、道路については、先の北海道10年計画による道路の築造が財政上の理由から粗悪であった上に、修繕費も過度の節約を強いられて道路開設の効果が著しく減損されることとなったことから、方針の見直しを行いました。具体的には、拓殖費支弁道路の国費修繕期間を築造後10箇年に延長するとともに、ⓐ路線選定を厳重にして築造工法を向上させる、ⓑ既設道路の重要区間を改良すること、ⓒ維持修繕の強化を図ること、の3方針を打ち出しこの方針により整備を進めることとしました。

しかし、第1期拓殖計画も、歳入欠陥、第1次世界大戦、物価高騰などのため計画事業量の達成は不可能となり、計画期間の2年延長、築造水準の低下等を講じましたが、昭和元年(1926年)の計画終了時の道路事業は延長で75%程度の達成率でした。

この時代には、ⓐ改良が重視されてきたこと、ⓑ大正13年から市町村の改良に補助を行ったこと、ⓒ国費による道路修繕期間を築造後10年間としたことなどが特に注目されます。

(e)第2期拓殖計画(昭和2年から昭和21年)

この期間の前半には、国道、地方費道、町村道などの改良工事は計3,559km実施されました。その過半に当たる約2,200kmは救済工事(経済不況や飢きん等で疲弊した地方で失業者を雇用して行う事業)で、この中には大規模の改良工事も含まれましたが、大部分は砂利敷を主とする簡易改良の工事にすぎませんでした。それにしても、全道にわたる広範な砂利敷工事により、従来の劣悪な路面が改善され、自動車交通可能延長は急激に増大しました。

この時代の道路工事の代表的なものは、札樽国道(昭和6年~9年)、十勝~日高間の黄金道路(昭和2年~9年)、層雲峡道路(昭和3年着工)、幣舞橋完成(昭和3年)、2代目旭橋(昭和4年~7年)、旧十勝大橋(昭和16年)など名だたる工事が実施されました。

この期間の後半は、昭和12年に勃発した日中戦争やその後の戦争により、予算の確保が困難となり、当面必要な事業や、戦争遂行上必要と認められる事業に限られました。

4.戦後の道路整備

北海道の道路整備が飛躍的に進んだのは第2次世界大戦後ですが、明治以降、財源確保に苦労しながらも計画的・組織的に道路整備を進めてきた礎があったからこそ、戦後の飛躍的な整備に繋がりました。

ここから、戦後の道路整備について、その歩みを駆け足で見てみましょう。

戦後も政府は北海道開発の重要性を認め、昭和25年(1950年)5月「北海道開発法」を公布し、同法に基づき北海道開発庁を設置しました。これにより、翌年度以降の北海道開発に関する公共事業費は同庁に計上され企画面の総合調整を図ることとなり、また、翌26年7月には国の直轄事業の総合執行機関として札幌に北海道開発局を設置し、実施面においても国営と道営とを分離し、戦後の北海道総合開発事業が展開されることとなります。

道路整備については、第1期~第8期の北海道総合開発計画に基づいて強力に進められ今日に至っています。

戦後の道路整備について、欠かすことのできないのが財源の確保でした。

戦後のモータリゼーションによる自動車の台数の増加(全国の自動車の保有台数:昭和27年度75万8000台 ⇒ 昭和32年度206万9000台)と経済政策の成功による産業の活発化は旺盛な道路需要をもたらし、政府は次々に道路に対する新政策を打ち出しました。

この中で、昭和28年(1953年)7月に成立した「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」は、道路整備5箇年計画を策定すること、およびそのための財源として当該年度の揮発油税収入相当額を充当すべきことを定めたもので、昭和33年(1958年)には「道路整備緊急措置法」に引き継がれています。(いわゆる「道路特定財源制度」です。「道路特定財源」は平成21年度からは「一般財源化」されています)これらの法律により戦後の道路整備は飛躍的に進みました。

また、戦前までは十分に対応できなかった除雪を含む維持工事、修繕工事さらには交通安全事業も計画的に工事を進めることが出来るようになりました。

昭和27年(1952年)から平成5年(1993年)までの約40年間に北海道の国道は、橋梁・トンネルを含めて新設及び改良工事が5,000㎞以上進み、それに合わせて舗装工事延長も6,000㎞以上進捗し、ほぼすべての国道で構造令に合わせた道路新設・改良工事さらには舗装工事が進められました。

現在は、高規格幹線道路を含めて約6,750㎞の一般国道が整備され、除雪など利用者ニーズに沿った維持修繕工事も行われています。この道路を自家用車のほか貨物自動車や都市間バス、ハイヤー・タクシー(北海度の登録自動車台数は約377万台(平成30年))が利用しており、北海道の人流・物流を支えています。

北海道の経済活動や生活を支える大動脈の国道などの道路整備は、これまで見てきたように明治以降、困難を乗り越えて、多くの人たちの努力により、今日の姿となったのです。

北海道の道路整備については、これからも高規格幹線道路のミッシングリンクの整備や、急激に整備を進めてきた構造物等の老朽化対策や防災・地球温暖化対策、さらには自動運転等多様なモビリティに対応した道路空間、Maasなど他の交通と連携したマネジメントサービスなど、多くの取り組まなければならない課題があります。

このコラムを読んでいただいた皆さんには、今後も、道路整備について引き続きご支援とご理解を宜しくお願い致します。

一般社団法人北海道開発技術センター理事長 山口登美男

1957年札幌生まれ
1980年北海道大学工学部卒業後、北海道開発庁(現・国土交通省)入庁
会計検査院鉄道検査第2課調査官、北海道開発局道路計画課長、中国地方整備局山口河川国道事務所長、北海道開発局建設部長、大臣官房審議官(北海道局担当)を経て、2017年5月より現職