広場の話題 2「子どものころの「広場」「原っぱ」」

子どものころの「広場」「原っぱ」

私が子どものころというと、昭和30年代から40年代。いわゆる高度成長期であった。それでも札幌の街中にはまだまだ空地があり、子どもにとっては格好の遊び場であり、広場であった。子どもながらも「広場」と「空地」はなんとなく分かれていて、住宅と住宅の間の宅地は「空地」であり、河川敷や牧場の延長にあるような場所、造成が進んでいない場所が「広場」と言っていたように思う。
今思い起こすと、月寒川などはまだまだ護岸工事も行われておらず、黒澤牧場との境目も木製の柵があるだけ。氾濫の跡だったのだろうか、そういうところには必ずと言っていいほどちょっとした平地ができていて、それを僕らは「広場」「広っぱ」と呼んでいたものだ。
ある時は野球場になり、ある時はスキー場になり、そしてある時にはスケートリンクにもなる、まことに便利なのが広場であった。児童公園が徐々に整備され、ベンチや砂場、遊具が整備されてはいたが、広場に置きっぱなしになっている材木は隠れ家になり、基地になり「少年探偵団」になったつもりで遊べるのだ。

少年時代を思い出しながら地図を見つめると、その広場と呼んでいた跡地(僕等にとっては、広場の「跡地」なのである)は、例えば吉田川公園や馬場公園のように今では立派な公園になってしまったところもある。
子どものころに我が家から数キロも離れた場所に行くと、ヤチ(谷地)であり背丈を越えるススキなどが生えており、夕方になると帰ってこない僕等を親兄弟が探しに来てこっぴどく叱られたものだ。(なぜかすぐに見つかる)

時代が変わり最近は「HIROBA」と表記するお洒落な空間ができたり、札幌の駅前界隈も道庁前の「北3条広場「アカプラ」」、「札幌駅南口駅前広場会場」と名付けられ夕方の情報番組の中継のお決まりの場所になっている。テレビのクイズコーナーを目当てに多くの人で平日も賑わい、週末や休日にはシッピングで多くの人が広場に集まるようになった。

こうして街中の広場は賑わいを見せるのだが、一方では自由な空間ではなくなったようにも思う。立派な企画や使用許可が必要な場所になってしまった。そして、住宅と住宅の間にあった小さな広場である「空地」はいつの間にかドンドンと増えてしまい、都市空間の新たな課題になっている。こちらも子どもたちが勝手に基地にしてしまうことなどできない場所だ。子どものころは牧場の柵の壊れた場所を探して入り込んだりしていたが、今の空地には立派な柵が巡らされて「〇〇不動産管理地」などと看板が掲げられている。

公園や空き地、広場は子どもにとっては「空想の場所」だったのかもしれない。今、児童公園や広場に「空想」や「想像」の世界を作ることができるのだろうか。現実には難しいのだろうが、そんな空間も必要だと思いたいのだ。

合唱曲「日記のうた」を聴きたくなったので筆を終えよう。

寄稿 札幌市    上野 貴之

2018年11月第2号 No.44