トンネルの話題 1「積丹の手掘りトンネル」

      
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
 日本人初のノーベル文学賞作家川端康成の「雪国」の有名な書き出しですが、「トンネルを抜けると積丹ブルーであった」と思わず言いたくなるトンネル、それが北海道の積丹半島にある「島武威トンネル」です。
下の写真をご覧ください。トンネルを出た途端、約100mの絶壁から日本の渚百選にも選ばれた島武威海岸の大パノラマが広がります。

 皆さんは北の海と言うと、ともすると演歌「津軽海峡冬景色」のイメージ、どんよりと低い雲が垂れ込めた日本海の荒波を思い浮かべるかもしれませんが、夏の積丹の海は南国さながらのコバルトブルーなのです。

下の写真は、島武威トンネルの入口部分です。

 雪国に登場する清水トンネルは、川端康成が執筆した1935年当時、鉄道トンネルとしては東洋一の長さ9.7㎞を誇った大トンネル、それに対して島武威トンネルは、70m程の人がすれ違うのもやっとの小さなトンネルなので、実は並べて書くのはおこがましいかもしれません。1895年(明治28年)に人力で掘られ、その後1972年、2016年に改修、補強されましたが、今なお当初の原形を留め、昔日を思い起こさせます。

 さて、積丹ブルーのもう一つの代表的スポット神威岬はご存じも多い観光名所ですが、海岸沿いの遊歩道に念仏トンネルという素掘りのトンネルがあります。1912(大正元)年に神威岬灯台の灯台守の親子3人が町への買い出し途中で荒波に飲まれて命を落とすという惨事があり、そのようなことを繰り返したくないという地元の人々の思いからトンネル工事が計画され、両側から掘り進みました。しかし、技術の未熟さからか、わずか60m程のトンネルにもかかわらず、中央部分で食い違いが生じてしまい、村人たちは犠牲者の供養も兼ねて、双方から念仏を唱えながら鐘を打ち鳴らして進む方向を定めて掘り進みました。そして1918(大正7)年に悲願の開通にこぎ着け、「念仏トンネル」と呼ばれるようになったとのことです。
念仏トンネルは、中央で直角に曲がっているため出口が見えず、洞窟のような狭いトンネル内は真っ暗です。私も40年余り前に訪れましたが、素掘りのゴツゴツした岩肌の感触だけを頼りに手探りで闇の中を進んだ体験は忘れられず今でも鮮明に覚えています。ただ、今は落石の危険のため海岸沿いの遊歩道は通行止めとなり、念仏トンネルにも立ち入れなくなってしまったので残念です。

 積丹半島には、このような先人の苦労を偲ばせる手掘りのトンネルが随所に残っています。そして、道路の発達とともに山側により長く、広いトンネルが掘られたのですが、その変遷が一目で見られるスポットがあります。
下の写真は、神威岬と島武威海岸のほぼ中間地点に位置する武威岬ですが、一番右側のトンネルは2001(平成13)年に完成した現在の武威トンネル(長さ700m)で、その左側に3本のトンネルが並行して掘られています。半分隠れていて見にくいのですが、青〇が1965(昭和40)年完成の旧トンネル、そして岬の突端に2つの手掘りのトンネルがあり、黄〇が1922(大正11)年完成の長さ約70mのトンネル、赤〇が1889(明治22)年完成の長さ12mのトンネルです。

 手掘りのトンネルとしては、中山隧道(新潟県長岡市・魚沼市間)が戦争を挟む16年間もの歳月をかけて開通した長さ922mの日本最長の手掘り道路トンネルとして有名ですが、この武威岬のトンネル群も明治、大正、昭和、平成のトンネルが同時に見られるという点で希少価値がありそうです。

 積丹半島はその昔、船でしか行けない秘境もありましたが、道路が半島を廻り、岩盤崩落や越波による危険もトンネルの整備の進展により回避されました。今や国道229号の余市町・岩内町間は4分の1の区間がトンネルに変わり、文字通り安全・安心なドライブが楽しめるようになったのです。
しかし一方で危険とは隣り合わせながら海辺をドライブする楽しみは少し減ったような気もします。
時には車を停めて海岸風景を楽しんだり、手掘りトンネルを眺めたりしながら、のんびりとドライブというのも一興かもしれませんね。

2021年9月第2号 No.106号
(文責:小町谷信彦)