日本縦断還暦青春一人旅
(株)シビテック 特別技術顧問 浅野基樹

1. はじめに
この7月(2019年7月)から建設コンサルタント(株)シビテックにご厄介になっております浅野基樹と申します。
1981年に旧北海道開発庁に採用され、以後、他省庁出向を挟みながら北海道開発局等に勤め、この春に土木研究所寒地土木研究所を定年退職し、現在に至っております。
今回は、かつてから貴社の小町谷副社長様より以前から寄稿の依頼がありましたところ、一度してみたかったマイカーによる日本縦断の旅に、退職後の無職の期間にたまたま出かけましたので、その様子をかいつまんでまとめて寄稿させていただきました。
旅立ちの日は、行楽地が空いてからということで、ゴールデンウイーク後の5月9日(木)。上ノ国町において寒地土木研究所主催のラウンドアバウトに関するセミナーが開催されるのに合わせ札幌を出発。そのセミナーに参加の後、翌日(5月10日(金))に北海道を離れ、5月末日に札幌に戻る予定で出発いたしました。

2. 東北自動車道
5月10日(金)午後5時発、津軽海峡フェリーにて青森へ。午後9時に青森に到着。9時半に青森インターから東北自動車道へ。今回は、行きは九州の南の端まで高速道路を一度も降りずに何時間で行けるか試してみようという目標を立て、カーナビの目的地を知覧の特攻平和祈念館にセット。

(写真‐1 函館から知覧までの経路案内(実際の走行経路とは異なります))

東北自動車道に入ってまず感じることは、思いのほか線形が厳しく感じることでした。おそらく自動車専用道路の山岳部規格(Ⅰ種3級)、設計速度80キロだと思います。
北海道で言えば、札樽自動車道、北海道縦貫自動車道で言えば苫小牧西ICから先の区間がそうだと思います。夜に走ったせいか特に感じたのかもしれません。
そのような東北自動車道ですが、平野部で設計速度がおそらく100キロ以上の区間で規制速度を上げる社会実験を行っております。
私の感想としては、後ほど述べます新東名高速道路と比較すると、車線幅員が狭いせいか少し無理があるように感じました。

(写真-2 東北自動車道の社会実験)

3.新東名自動車道

 第2東名とかという名前の時もありましたが、正式名称は新東名自動車道。設計速度140キロ、車道幅員3.75メートル、聞くところによれば視距400メートル、最小曲線半径3000メートル。最小曲線半径は新幹線規格よりも大きいそうです。ここを、行きも帰りも走りました。

 

率直な感想は、ユーミンの歌「中央フリーウエイ」の歌詞ではありませんが、「まるで~♪滑走路~♪」です。あるいは、サーキットの観客席前のストレート。
ここも、120キロ規制の社会実験を行っておりますが、東北自動車道の片側2車線、車道幅員3.5メートルとは雲泥の違い。新東名は幅員3.75の3車線、同じ実験区間として差がありすぎる感じがいなめません。
聞くところによりますと、この社会実験で事故率が増加しなければ、全国の設計速度120キロ区間(北海道においては確か千歳~苫小牧東の一部区間、岩見沢付近の道央道)で順次規制速度を変えていくようです。

(写真‐3 新東名高速道路 下り線)

4.伊勢湾岸道路

 新東名を抜けて、中部地域を横断。ナビの言うままに進む。てっきり東名高速から名神高速に入るのかと思いきや、伊勢湾岸道路に案内される。これがまたすごい道路。長大橋の連続で片側3車線。名古屋付近はこれで東西方向に東名と伊勢湾岸と環状道路の三本があり、子供のころ太平洋ベルト地帯という名前を教えられましたが、この歳になってまさにその実態を感じることができました。

(写真‐4 伊勢湾岸道路)

5.新名神自動車道

 名古屋を超えてからもカーナビの示すままに。何気に新名神自動車道に入る。ほとんど地理感の無い私は、ただただ回りの景色に見とれて走るばかりではありますが、サーキットで有名は鈴鹿の名前のついたサービスエリアなどを休憩がてら見学。

東北自動車道に入った段階から気が付いていたのですが、サービスエリア、パーキングエリアのサービス水準、駐車台数の北海道との画然たる違いです。設置間隔は基本であるほぼ20キロ毎に着実にあること、全ての個所ではないにせよ24時間営業のレストランがあること、24時間絶え間なく大型車が何十台、あるいは百台・二百台、駐車、休憩していること、時には満車でオンランプ、オフランプにも駐車しており、本線上でSA、PAの満空情報を表示して、どこに停められるのか案内しています。
これを見ると、如何に経済活動に差があるのか、北海道は知らぬうちに置いて行かれている感をいなめません。

(写真‐5 鈴鹿PA)

6.山陽自動車道

 山陽自動車道はくせもの。大阪を過ぎ、九州まであと少しと思いきや、中国地方の長いこと。設計速度はたぶん80キロ。中国自動車道はさらに低い区間も。ところによっては、下り勾配5%で延々と。とてもスピードを出せるものではありません。3速ギアでアクセル離して一定速で85キロ。時にはブレーキ。しかし、地元の人は車間距離をつめてより高速で走ろうとする。雪氷道路を経験したことがない人は、危険な目にあったことがないため走れるのかなと思ったりします。私にはそんな勇気はありませんでした。

山陽自動車道、中国自動車道は山の中。北海道では一般道路を下道とは言わないけれど、ここに来て下道という感覚が良く分かります。高速道路、あるいは自動車専用道路はほとんど山の中なのです。可住地である平坦部はいずれもすでに利用されている土地であり、また高速道路の線形を保つにはどうしても橋とトンネルで山側に造らざるを得ないのだと直感した次第。日本は山と川、なんとも自然豊かな国土なんだろうとも思い直した次第でした。

(写真‐6 山陽自動車道の歴史を記述した看板(宮島SA))

7.九州・四国の自動車道

 今回の旅の目的の一つには、九州の都市間の時間距離を実感したいということもありました。はたして、門司から鹿児島までどのくらいの時間距離なのであろうか。九州一周はどのくらいでできるのだろうか。

実際には、運転に疲れて頻繁に休憩しながらの旅となりましたが、北の端から南の端までで約5時間、北海道で言えば、札幌を中心として東は釧路か北見、北は旭川か名寄、南は函館までのエリアの感覚で、ちょうど釧路~根室と名寄~稚内を取り除いた広さ・時間間隔かなと思った次第です。

道路整備の水準から言いますと、交通量の差もありますが、高速道路、自動車専用道路の整備が相当進んでいます。特に差が感じられたのは、おそらく地域高規格道路なのだと思いますが、無料の自動車専用道路の整備が 暫定2車線ではあるがどんどん進んでいるという感覚です。

この点は、一般道路の走りやすさは他の地域に抜きんでている北海道ではありますが、自動車専用道路の整備においては相当置いて行かれている感はいなめない。

これは四国においても同じです。

(写真‐7 東九州自動車道 延岡付近)

(写真‐8 松江自動車道 松江・宇和島間)

四国において、もっとも特徴的なのは、いわゆる国道ならぬ「酷道」です。
四万十川に沿って一般国道485号を走ってみました。
四国の1.5車線道路は聞いていたが、ここは言ってみれば1車線道路。ただ単に舗装された林道という感じです。山側は急峻な崖、川側は切り立つ崖、崖下には四万十川、いつ来るかも知れない対応車。そこを、現地の人はスイスイと。時々退避所があるもののほとんどが1車線。路側の電光掲示板は見逃すなかれ。「対向車あり」と出れば、すぐそこに必ず対向車。とてもスイスイとは走れません。485号を抜けた時は一安心なれど疲労困憊。二度と走りたくない。本州の400番台の国道は要注意です。

 

(写真‐9 四万十川)

8.帰路

 今回の旅では、帰路は時間に許す限り名所を巡ることにした。九州では南端の開聞岳や佐多岬を巡り、知覧の特攻平和祈念館、鹿屋の航空資料館、島原五橋、田原坂、阿蘇山、湯布院、高千穂、日南海岸、国東半島、福沢諭吉旧居記念館。
四国では瀬戸大橋3ルート、宇和島城、ジョン万次郎記念館&生家、足摺岬、室戸岬、クジラ博物館。
紀伊半島では、潮岬。
三重県では伊勢志摩国立公園、伊勢神宮、松浦武四郎記念館・生家。
東北では、常磐自動車道の帰宅困難地区を通過し、三陸自動車道、陸前高田市の復興状況、朝の連続テレビ小説で有名になった久慈市の道の駅、約50年前に延長18回を投げぬいた太田浩二投手がいた三沢高校、貧困を極めた旧斗南藩の下北半島、陸奥湾、マグロで有名な大間。
そのどの地点でも思い出はありますが、とてもここでは書ききれません。

 

9.おわりに

以上、雑駁ですが、定年退職後の悠々自適だった時期を使い自家用車を利用した日本縦断旅行の模様のほんの一部をご紹介しました。
前章でも書きましたが、記憶が薄れゆくとは言え、立ち寄った全てのところで思い出があります。ここでは、とても書ききれませんので、いずれまたの機会がありましたらご紹介したいと思います。(了)

(株)シビテック 特別技術顧問
(国研)土木研究所 名誉研究監  浅野基樹
1981 北海道大学 工学部土木工学科 卒業
   北海道開発庁(現 国土交通省北海道局)入庁
1981~2000 北海道開発局(道路部門)函館開建、土木試験所、本局、釧路開建、室蘭開建(苫小牧道路)
(1987~1989 経済企画庁 経済協力第2課
(1993~1995 外務省(本省)経済協力局)
2000 北海道開発局 開発土木研究所(交通研究室長)
2001 (独法)北海道開発土木研究所(交通研究室) 
2006 (独法)土木研究所 寒地土木研究所(寒地交通研究チーム上席研究員)
2008 同 (技術開発調整監、寒地道路研究グループ長(併任)) 
2009 同 (寒地道路研究グループ長)
2014 同 (研究調整監)
  2019 定年退職