創成川のデザイン~北海道ファンから(Ⅲ)
東京大学名誉教授 篠原修 

 
1.都市散歩

駅や橋の仕事で出かけ、地方の都市に泊まることも多い。仕事が終わって、「お疲れさ~ん」と皆で一杯飲むのは楽しみだが、ある時から朝の散歩がそれ以上の楽しみになった。恐らく、歳のせいだろうと思う。
東京は地元だから泊まることは無いが、朝夕、東京駅や丸ノ内辺りを歩いていると、ジョギングしている人間に行き合うことも多かった。大抵が外人である(外人ってわかりますよね)。彼らもそれを楽しみに日本に来ているのでは、と思うようになった。ここは「まあ、良いでしょ」と声を掛けたくなる。何せ皇居だから、お濠があって鬱蒼とした森が見える。
京都に行くと城は無いが、鴨川がある。その向こうには東山が連なっている。川幅が丁度いい、約百メートル。お隣の大阪に行けば城も川もあるのだが、何せ淀川は大きすぎる、対岸の人は何をしてるのか。「大阪なら御堂筋でしょ」と言われても、車の洪水で散歩する気にはなれない。
東京では北の札幌、西の博多と称される。住んで良く、出張で楽しい街だから。博多は食べ物がうまく酒も結構いける(ただし焼酎ですが)。最近は寄らないが、九州各地から美人も集まっている。だが、散歩するところがない。繁華街中洲の川は、お世辞にもいいとは言えない。天神なんて、別にですよ。
そこに行くと、札幌は都市散歩に最適な街である。昔からの友人、安江さんの推薦で後楽園ホテルを定宿にしていた。「ポロクル」の発足会でもお世話になった所。札幌は海産物が美味く、焼酎ではなくてビールにウイスキー、街を歩いているのは確かに美人だと思う。翌朝、2階のレストランで大通りを横目に新鮮な牛乳を飲み、パンを食べてコーヒー、さて、と散歩に出る。出ると目の前が大通りで、そこにはイサム・ノグチのブラック・スライドマントラ。まさか滑りはしない、近寄って肌に触れ、振り返ってテレビ塔を見る。一服して、塔に向かってゆっくり歩き出す。こうやって札幌の1日が始まるのだった。
 

2.プロポーザルコンペ

「緑を感じる都心の街並形成」という長ったらしい名前の委員会だった。縦の駅前通り、創成川通りに横の4条と道庁前の通りを対象に札幌の都心をこれからどうするか、ストリート文化がテーマになっていた。平成14年(2002)12月。どういう訳で僕が呼ばれたのかはわからなかった。東京からは東急文化村の専務とイベントのプロが呼ばれていた。普通は内地の人間は呼ばれないから珍しい人選だった。あっけなく委員会は終わったが、創成川通りを桜並木にしては、と提案したことだけはよく覚えている。桜並木なんて如何にも陳腐な、と若い時には馬鹿にしていたのだが、桜は春の花だけではなく秋の紅葉もいいのである。平成3年から島根県津和野の川をデザインしていた時に悟った。津和野は画家の安野光雅の出身地。

委員会が終わって、プロポーザルコンペでデザインする人間を決めることになった。審査の委員は北大都市計画の小林教授、造園の龍さんに僕の3人だった。これも委員会以上に意外で、何で僕が入るのかと思った。僕が入った事はともかく、このコンペはそれまでには無い、ユニークで優れたものだった。札幌市を褒めなくてはならない。駅前通りの、地下で繋がっていない駅前から大通りの間に通路を、創成川両側の車道を狭めて川の散歩道を作る事が、テーマとなっていた。地下通路と川の散歩道だから、都市計画、造園、照明の専門家でチームを組んで応募してくださいとなっていたのだ。こういう風にチームで応募させるというのは、初めてだったのではないか。ヨーロッパのコンペでは結構やられているが。
帯広と旭川で駅と駅前の仕事をやっていた加藤源さんのチームが選ばれた。仕事が始まってから、やはり建築が必要だとなって、栗生事務所がこれに加わった。今回は書かないが、駅前通り地下通路の所々に地上から光が降ってくる穴が空いているのは、皆さんご存知でしょう。仰ぎ見ると木と空が見える。スルーホールと称する装置で、栗生明さんのアイデア。彼が参加しなければ、ああいう他の都市には無いユニークな通路にはならなかった。

 

3.創成川と創世橋

創成川が明治維新の前にできていた事は、札幌っ子ならご存知でしょう。運河として掘られたのですが、ここの水をコントロールするゲイトを設計した人物を知っていますか?。実は直ぐに壊れてしまったので、話題にはしないのですが、その人の銅像が東大正門を入った直ぐ傍に鎮座しています。土木の人間なら誰もが知っている古市公威という人物で、初代の東京大学工科大学の学長、今で言うと東大工学部長にして、初代の土木学会会長です。この「公威」という名前を持っている著名な人物がいたのを知っていますか?。平岡公威という人で、これじゃわからないか。ペンネームは三島由紀夫です。父親が役人で古市を尊敬していたから、息子にその名を付けた。

 

昭和10年(1935)頃の創成川。この塔は何だっただろうか。

創成川は維新になって初代の開拓使長官の島によって、札幌の都市計画の基準線になった。そして、ここに橋が架けらる。これは知ってるでしょう。そう、創世橋。出来た年は知ってますか?。又質問になった。明治43年(1910)、土木や都市計画の人間なら、へー、と思うはず。何故なら、東京の今の日本橋が出来たのが明治44年ですから、創世橋の方が一歳上の兄貴という事になる。

 

4.プライドとオリンピックの恨み

仕事はプロポーザルで選ばれた加藤チームと小林、龍に僕の3人が議論をしながら進めるというスタイルになった。ある時、市役所に行って担当者に会うと、苦い顔をしている。「どうしたの」と聞くと、「電話攻勢で参っているんですよ」という答え。電話を掛けてくるのは市議と道議の2人で、狸小路、二条市場の代表者の後押しをしているのだった。「どういう要求なの」と聞くと、「狸、二条間の創成川に蓋かけの広場を」だと言う。折角川の両側を遊歩道にして歩いてもらおうと考えているのに、全面的に蓋をかけてしまっては水が見えなくなる。代表者と議員らに会って話を聞くと話は1972年の札幌冬季オリンピックにまで遡るのだった。
それまでは狸小路と二条市場は繋がっていた。オリンピック開催に当たって、市は創成川通りを幹線街路として整備し、狸から二条への連絡は地下通路となった。回遊路が切れたのだった。その地下通路に潜ってみた。「こりゃあダメだ」。二条市場に行かなくなるだけではなく、行き止まりのようになってしまった狸小路も場末のようになったのだと言う。彼らにしてみれば、創成川通りの整備はオリンピック以来の、30年来の恨みを晴らすチャンスなのであった。彼らには狸も二条も公に頼らずにやってきたと言う、自負もあるのである。それ以来、現場に行くたびに狸の店に顔を見せ、二条に行くと加藤さんは代表の店に入って行く。どうするのか、と思って待っていると加藤さんは話しながら、海産物を買って出てくるのだった。

 

5.文化行政の彫刻

そんな話は当初聞いていなかったのだが、遊歩道には彫刻を置く計画になっていると言う。テレビ塔の脇には西野さんの、随所に団塚さんの小物をというのだ。市の文化担当部局との連携はあまりなく、場所も作家も上から下りて来た感じだった。団塚さんの小物は下手をすると植栽に埋もれるのでは、と危惧した。委員会で桜並木を、と言った事は撤回していた。札幌に桜では内地のコピーになって、北海道らしさがない。最終的にはアカシアの並木となった。北原白秋の詩に出てくる。「この道はいつか来た道、ああ、そうだよう、アカシアの花が咲いてる」と謳われた道は、何処だか知っていますか?。それは白秋が歩いた札幌の道なのである。彼の出身は九州の柳川。
西野さんの彫刻はステンレスの綺麗なリングで、いいと思った。だが、予想に反してそれを立てるのではなく、寝かせて創成川の上に架けるのだと言う。もっと意外だったのは、このリングを橋にして人を渡らせると聞いた時だった。人を歩かせるとなると、滑り留めを付けなければならないし、もっと大変なのはリングの両端に手摺りを立てなければならなくなる。こういう風に、いろんな物をくっ付けていくと、折角、「スーと綺麗な形」が台無しになる。そう、直接彼に言えば良かったと、後で後悔した。出来上がったのは、予想通りゴテゴテとした橋となってしまった。

 

そんな事でやきもきしていると、全く違う筋から彫刻を置きたいという話が出てきた。狸のちょっと北の萬田病院だと言う。3代にわたって札幌市にはお世話になったので、安田侃の彫刻4体を寄付したいという話だった。市が断れる訳はなかっただろう。本人が来て置く彫刻と場所を決めて行ったと聞いた。
彫刻については素人だが、見て歩いてみると、その差は歴然としているのだった。安田の彫刻は札幌駅の通路に置いてあって、札幌に来るたびに撫でて通っていた。また、東京でも六本木のミッドタウンの入り口と地下に置いてあって、これも撫でて歩いていたから、よく知っている。触りたくなるのだ。ミッドタウンでの講演会にも呼ばれたことがあって、洞爺湖畔に置いた彫刻には噴火で親類を無くした女性が、それに抱きついて泣いた、という話をした。彫刻といえば市役所にいた星さんに連れられて、美唄に行ったことを鮮明に覚えている。アルテピアッツァ美唄の冬景色は素晴らしかった。寄付を申し出た人はもう一人いた。似鳥の社長だった。今のようには有名ではなかったが。

竣工式後の記念写真(狸・二条広場)。竣工式には彫刻を寄付した萬田病院とアカシア並木を寄付した似鳥が出席。ここに写っているのは札幌市役所担当者、加藤事務所、造園のDM、照明の面出事務所、建築の栗生事務所、メーカーのヨシモトポールの諸氏に筆者。

6.創成川を歩く

創成川が出来て、札幌散歩のコースが変わった。スタートは相変わらずイサム・ノグチのマントラ、テレビ塔を見て東へまでは同じ。駅前通りまで行って南へ、狸小路へ当たって左折し代表の店を覗いて、狸・二条の広場へ。ここで安田の彫刻に出会い、北へ。流れの向こうの医院に挨拶して、更に歩む。テレビ塔の下で今度は西野さんのリングに挨拶。散歩の途中では白秋の「この道」や「城ヶ島の雨」が出る。歩きながらこう思う。札幌には彫刻がよく似合う。空の広さと空気の澄み具合なんだろうと思う。内地の都市ではこうはいかない。
時々はこうも思う。歩く人がちょっと少ない、勿体ない。もう一踏ん張りして、車道を1車線づつにしておけばよかったのに。創成川通りはもっと伸び伸びとした、札幌第2の「水の大通り」になったのに。

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東京大学名誉教授 篠原 修

博士(工学)
昭和43年 東京大学工学部土木工学科卒業
昭和46年 東京大学大学院工学系研究科修士課程修了; (株)アーバンインダストリー入社
昭和50年 東京大学農学部林学科助手
昭和55年 建設省土木研究所道路部主任研究員
昭和61年 東京大学農学部助教授(林学科)
平成元年 東京大学工学部助教授(土木工学科)
平成 3年 東京大学大学院工学系研究科教授(社会基盤学専攻)
平成18年 政策研究大学院大学教授、東京大学名誉教授
平成23年 政策研究大学院大学名誉教授、GSデザイン会議代表、エンジニア・アーキテクト協会会長;現在に至る

著書
「土木景観計画」、技報堂出版、1982;「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版、1985;「水環境の保全と再生」(共著)、山海堂、1987;「港の景観設計」(編、共著)、技報堂出版、1991;「橋の景観デザインを考える」(編)、技報堂出版、1994:「日本土木史」(共著)、技報堂出版、1994;「土木造形家百年の仕事」、新潮社、1999、土木学会出版文化賞受賞;「都市の未来」(編、共著)、日本経済新聞社、2003;「土木デザイン論」、東京大学出版会、2003、土木学会出版文化賞受賞;「都市の水辺をデザインする」(編、共著)、彰国社、2005;「篠原修が語る日本の都市 その近代と伝統」、彰国社、2006;「ものをつくり、まちをつくる」(編、共著)、技報堂出版、2007;「ピカソを超える者はー景観工学の誕生と鈴木忠義」、技報堂出版、2008;「新・日向市駅」(編、共著)、彰国社、2009;「まちづくりへのブレイクスルー 水辺を市民の手に」(編)、彰国社、2010;「河川工学者三代は川をどう見てきたのか: 安藝皎一、高橋裕、大熊孝と近代河川行政一五〇年」、農文協プロダクション、2018