北海道の橋の歴史

~北海道における橋梁建設の歩みと「橋造り名人」草野眞治の仕事~

1.世界における橋の発祥

人類史における人工の橋の発祥は古く、新石器時代の遺物である巨石記念物の時代(B.C4000~3500年)に遡ると言われ、イギリス東部のEast Dart川に巨石時代のものと信じられている巨大な「石板橋」(三基の石の橋脚と幅1.8m、最大スパン4.5mの石板)が残っている。 
また、メソポタミア地方には、紀元前4000年頃には「石造アーチ橋」、紀元前3000年には「尖塔アーチ橋」があったと言われている。
※参考資料:「橋の歴史」山本宏 著 平成3年

2.我が国における橋の歴史

一方、我が国における橋は、緑豊かな日本の風土から木造だったため石造のように残らなかったことから、その発祥は文献中の記載からの推測になるが、日本書紀の仁徳天皇14年(西暦324年)の条に、「猪甘津に橋を為(わた)す」と記述されているのが、人工的に架けられた橋としては、日本最古と言われている。
その後、5世紀以降、中国や朝鮮から日本に移住した帰化人により呉橋の技術などが伝えられ、さらに、江戸時代には、明の滅亡の際に日本に亡命した明の技術者によって石造りアーチ橋の技術が導入され、九州では1000を越える道路橋や水道橋が架けられた。そして、ペリーの黒船来航を契機とした開国により西欧技術が導入され、文久元年(1861年)に長崎製鉄所が完成し、明治元年(1986年)には、同じく長崎で我が国初の鋼橋「くろがね橋」が架けられた。
※参考資料:「橋の歴史」山本宏 著 平成3年

3.北海道における橋の歴史

(1)江戸時代前後

北海道道路史Ⅱ技術編(北海道道路史調査会編)によれば、北海道における有史以前の橋については、その記録がほとんどなく、和人が住むようになってからも誰某が私費で板橋を架けた伝々との記録が残っているが、おそらく、簡単な木橋であったと想像される、とのことである。
江戸時代の末期に北海道で最も早く街が開けた函館では、安政5年(1859年)に願乗寺川という水路5.8kmが掘られ、湯の川橋(現・宮前橋)、柳橋(現・新生橋)など8橋が架けられたが、簡単な丸太橋か板橋だったと思われ、本格的な橋の架設は明治以降となる。(注)
(注)※参考資料:「北海道道路史 Ⅱ.技術編」北海道道路史調査会 平成2年

(2)明治時代:近代的橋梁の黎明期

明治2年(1987年)に札幌に北海道開拓使が設置され、道都札幌を中心とした本格的な北海道開発がスタートする。一方、明治3,4年頃に小樽や浦河において民費により橋長10m前後、幅4m前後の板橋が架けられたという記録も残っている。
※参考資料:「北海道道路誌」 北海道庁 大正14年

北海道初の本格的な橋:初代豊平橋

「札幌市史」(昭和28年刊行)によれば、明治4年(1871年)に豊平川の支流に架けられた二連の丸木橋(初代の豊平橋)が道内初の橋らしい橋とされている。
明治5年(1872年)には、函館から室蘭を経由して札幌に達する札幌本道の開削が開始され、本流と隣の大きな流れに三連と二連の丸木橋が架設された。
しかし、これらの簡易な丸木橋は出水の度に落橋・流失を繰り返した。
※参考資料:「さっぽろ文庫8 札幌の橋」札幌市教育委員会編 昭和54年

日本初の洋式橋梁:N.Wホルト設計の豊平橋

北海道開拓使は、外国人技師N・W・ホルトに欧米の技術を取り込んだ設計を依頼し、明治7年に工事着手、明治8年(1875年)には、北海道のみならず日本初の洋式橋梁となる洋式木造橋(木・鉄混合のトラス橋)が完成した。
しかし、この記念すべき橋も明治10年(1877年)の出水で破壊・流失し、札幌農学校2代目教頭のP・W・ホイラーの設計により、前代と同様の弓形補強材を持つハウトラス橋に架け替えられた。
※参考資料:「さっぽろ文庫8 札幌の橋」札幌市教育委員会編 昭和54年

北海道初の鉄橋:岡崎文吉設計の豊平橋

その後、道都札幌は、近隣町村の著しい発展に伴い、交通量は増加の一途をたどったことから、道庁は、永久橋の建設を決断、当時、治水及び橋梁工学の第一人者であった道庁技師岡崎文吉に北海道における最初の鉄橋の設計を委ね、工事中に2回も洪水により橋の破壊、流失という事故にもあいながらも、明治31年(1898年)にその完成にこぎつけた。
しかしながら、この鉄橋をもってしても、明治42年(1909年)に発生した出水量780立方メートルの凄まじい洪水の猛威の前には無力だった。
『豊平川ものがたり』(駒崎元雄 著)には、『明治4年から明治42年までの間に、明確ではないが約30回も橋が架けられた』とあり、明治期の豊平川は、水害との闘いの歴史だったことがわかる。
※参考資料:
「さっぽろ文庫8 札幌の橋」札幌市教育委員会編 昭和54年
「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年
「豊平川ものがたり」 駒崎元雄 昭和47年

明治天皇の行幸に伴い架設された橋:(旧)藻岩橋

豊平川に架けられた古い橋としては、豊平橋の他に、明治14年(1881年)に仮橋として架けられた初代藻岩橋があげられる。明治天皇の行幸で真駒内から山鼻屯田にご訪問されることになったため急きょ架設されたもので、朱塗りの仮橋だった。
また、同年に豊平川に鉄道橋も架設された。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年

(3)大正〜昭和時代:近代的橋梁の発展期

北海道の三大名橋:(旧)豊平橋、(旧)幣舞橋、旭橋

大正から昭和初期にかけては、(旧)豊平橋(大正13年(1924年))、(旧)幣舞橋(昭和3年(1928年))、旭橋(昭和7年(1932年))が架設されたが、その壮麗でかつ周囲と調和した美しいデザインから「北海道の三大名橋」と称賛されるようになった。
ちなみに橋梁史に詳しい佐々木光郎氏は、『‘名橋’について‘名橋’の定義は大変難しいが、要はその姿・形、周囲との調和、あるいは、近景も遠景も一幅の絵となって人の心に強くいつまでも残る、スケールの大きな橋のことをいうのではなかろうか。
』と述べている。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年

RC桁橋としては世界一の橋面積:(旧)十勝大橋(帯広市・音更町)

この時代の一つのトピックスとしては、昭和15年(1940年)に完成した十勝大橋(ゲルバー桁橋;橋長390m、幅員18m)が挙げられる。
(旧)十勝大橋は、橋面積が6,987㎡、9連のゲルバー桁の支間長が41mで竣工当時、橋面積はRC桁橋としては世界一、支間長は日本一の超大橋で平衡荷重法によるアーチ式支保工を世界で初めて採用したほか、φ44mm、最大径25mの丸鋼を日本国内で初めて採用するなど、当時の最先端技術を使用し、『我が国のコンクリート橋の発展の先駆的役割を果たした記念碑的意義を持つ橋』(「北海道道路史 Ⅱ.技術編」北海道道路史調査会)である。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年
なお、大正末から昭和初期にかけては、多くのコンクリート橋が道内で架設されたので主要なものを示したのが下の表である。

<昭和20年以前に北海道内で架けられた主な鉄筋コンクリート橋>
施工年 橋名 所在地 橋長×幅員(m) 備考
大正15(1927) 羽幌橋 羽幌町 94.5×6.5 T桁
昭和2 (1927) 暑寒別橋 増毛町 175.2×4.6 T桁
昭和5(1930) 築別橋 増毛町 120.0×5.4 T桁
昭和7(1932) 藻岩橋 札幌市 150.0×5.0 T桁
昭和7(1932) 西五丁目橋 札幌市 44.5×16.4 T桁
昭和9(1934) 都橋 美幌町 18.3×5.5 T桁
昭和9(1934) 遊楽部橋 八雲町 157.6×7.5 T桁
昭和9(1934) 美深大橋 美深町 168.7×6.5 T桁
昭和9(1934) 磯谷橋 蘭越町 180.7×5.0 T桁
昭和9(1934) 叶橋 訓子府町 詳細不明 T桁
昭和10(1935) 愛別橋 愛別町 150.5×6.0 ゲルバー桁
昭和10(1935) 弟子屈橋 弟子屈町 詳細不明 3径間アーチ
昭和11(1936) 苫前橋 苫前町 120.5×6.0 ゲルバー桁
昭和11(1936) 大森橋 函館市 詳細不明 T桁
昭和11(1936) 千歳橋 函館市 詳細不明 T桁
昭和11(1936) 新川橋 函館市 詳細不明 T桁
昭和11(1936) 幌満橋 様似町 136.4×5.5 ゲルバー桁
昭和11(1936) 大樹橋 大樹町 162.0×6.0 ゲルバー桁
昭和11(1936) 幌別橋 浦河町 264.0×5.5 ゲルバー桁
昭和12(1937) 興部橋 興部町 63.0×6.0 T桁
昭和12(1937) 豊橋 札幌市 詳細不明 連続桁
昭和12(1937) 恩根内橋 美深町 141.5×4.0 T桁
昭和13(1938) 南一条橋 札幌市 178.0×9.0 ゲルバー桁
昭和14(1939) 鷲別橋 登別市 25.0×10.0 箱桁
昭和15(1940) 十勝大橋 帯広市 369.0×18.0 ゲルバー桁
昭和15(1940) 高盛橋 函館市 詳細不明 T桁

(出典:北海道道路史 Ⅱ技術編 ;北海道道路史調査会編)

草野眞治の手掛けた橋

この時代に草野作工の創始者草野眞治は、三大名橋の(旧)豊平橋と旭橋を手掛けただけでなく、道央圏の主要な橋の下部工事を中心に数々の橋梁工事を手掛け「橋造りの名人」という異名を勝ち得た。そこで、以下は草野眞治の手掛けた橋梁を年代順に追っていくことにより、大正~昭和時代の北海道の橋の歴史をたどることとする。

森合組の時代

(旧)石狩大橋(大正9年(1920年)竣工)

石狩川下流両岸の江別と当別の人々にとって橋の架設は、長年の悲願だったが、住民の関係当局への陳情によりその建設が実現し、4年に渡る工事の末、大正9年に道道月形江別線の石狩川に初代江別大橋が架けられた。橋長は252m、幅員4.5mで、中央支間は60.8mのパーカートラス(木床版)一連、側径間は30.9mの木製トラス六連という構造だった。なお、この橋は当初、大正6年に木橋として建設が始まったが同年秋の洪水で橋脚の一部が破損・流失したことから橋の中央部を鉄橋に変更し完成にこぎ着けたという経緯がある。
※参考資料:「石狩川の橋物語」 三浦宏 編著 平成18年

(旧)豊平橋(大正13年(1924年)竣工)

「北海道の三大名橋」の一つとして多くの道民に親しまれた旧豊平橋は、北海道庁の山口敬助技師が、当時の最新式と言われていたタイドアーチ形式を採用し、設計したが、この形式の橋としては、東京の八ツ山橋に次いで日本で2番目に作られたものである。大正10年(1921年)に工事に着手し、同13年(1924年)に竣工した。北海道の三大名橋と呼ばれた旧豊平橋の美しさの源について、佐々木光郎氏は、豊平橋のアーチ部に関して『上は円で下は放物線だが、この径や弧の組み合わせで外観が異なる。(中略)この組み合わせがすぐれていたからとも思われる。』(さっぽろ文庫8 『札幌の橋』第2章2節 名橋豊平橋)と述べている。
この当時は、札幌の人口がわずか十万人余りで北海道は未だ“えぞ地”と呼ばれていた時代だったことから、「贅沢きわまる…」などという批判も多かったという。札幌は将来必ず北海道の中心都市として、大きく発展するであろうから、今からそれにふさわしい規模の橋をかけるべき、という信念を持って、国費の乱費などという謗りを敢然とはねのけて決行したとのことである。
なお、この時代までに豊平川の治水工事も進み、ついにこの橋以降、今日に至るまで豊平橋の破壊、流失はない。
※参考資料:「さっぽろ文庫8 札幌の橋」札幌市教育委員会編 昭和54年

橋写真1
橋写真
(旧)幌平橋(昭和2年(1927年)竣工)

幌平橋の立地する中の島は、大正時代は札幌市とは豊平川で隔てられ、また、豊平橋以南には橋がなく分断されていたため、ブドウ園、製氷場、火薬庫などがあるだけで、長らく発展が妨げられていた。そこで、河合才一郎氏(江別在住の道議)が中之島の発展を図るために私費を投じて昭和2年(1927)に架けた木橋(全長159m、幅5m)が初代の幌平橋で、個人の架けた橋としては当時日本一と言われた。注)
この橋の完成は、農産物の販路拡大、通学・通勤の利便性の向上に大いに貢献し、地元民から大変喜ばれ、また、中の島の市街化に先鞭をつけた。
しかし、昭和5年の洪水で右岸の桁部分が落下するなど、橋の維持補修を個人が負担するには過大となったため、昭和12年には北海道庁に寄付され、道は町村道に認定して、(旧)幌平橋は、ポニートラス形式の新橋に架け替えられた。
(注)※参考資料:「石狩川の橋物語」 三浦宏 編著 平成18年

由仁夕張川橋梁(昭和5年(1930年)竣工)

JR室蘭本線の由仁町と栗山町の境界付近を流れる夕張川に架かる橋で、当初建設された明治35(1902)年の橋が昭和5(1930)年に改築され、JR上り線として現在も使われている。(橋梁構造: 曲弦プラットトラス(18m×2連)、ポニーワーレントラス(30m))

旭橋(旭川市;昭和7年(1932年)竣工)

初代の旭橋は明治37年(1904年)に北海道庁技師山岡三郎の設計により架けられた鋼橋(全長約104m、幅員5.5m)であるが、前後の側径間は木造だったため、大正時代後期には老朽化が進み、都市拡大に伴う交通量増加にも対応できなくなってきた。
また、大日本帝国陸軍第7師団司令部へ通じる国道40号の重要な橋という役割もあったことから架け替えることとなり、昭和2年に設計を北海道大学工学部長の吉町太郎に依頼した結果、橋梁形式に「旭川のシンボルとなる橋」という点も考慮して、ブレースド・リブ・バランスド・カンチレバー・タイドアーチ橋を採用することとなり、昭和4年に着工後、昭和7年に竣工した。
3連のアーチのうちの中央径間のアーチを他の3倍も大きく飛ばし、左右を径間をアーチでなくカンチレバーとすることにより、大規模なスケール、躍動感と優美な形状を両立させ、周辺環境とも調和した美しい橋梁美を実現した。
なお、三大名橋で現存するのは旭橋だけで「旭川八景」に指定されているほか、北海道最古の鋼道路橋としての歴史的価値から「土木学会選奨土木遺産」や「北海道遺産」にも指定されている。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著

橋写真1
橋写真2
(旧)藻岩橋(札幌市;昭和9年(1934年)竣工)

明治14年の明治天皇の行幸のために架けられた初代の木橋が流失後、長らく橋は架けられず、明治9年以来の上山鼻渡船(藻岩下~真駒内間)が近隣住民にとっての唯一の渡河手段だったが、大正7年頃からの付近住民の熱心な運動がようやく実り、昭和7年に長さ150m、幅5mの鉄筋コンクリートT桁橋が完成した。
15m10連の美しい壮観に当時の札幌中心部や豊平・白石の人達からは、『あんな田舎に、あんなりっぱな大きな橋をつくったのは、けしからん』(『豊平川の橋物語』(編著 三浦宏)との声があがったという。
しかし、戦後の昭和21年に米国の歩兵師団が真駒内にキャンプを設置してから重車両の往来が増えたことから、安全保障費による架け替えが決定され、昭和29年に橋長150m、幅員6.0mの鋼単純桁橋が完成し、(旧)藻岩橋は撤去された。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著

(旧)空知大橋(滝川市・砂川市;昭和9年(1934年)竣工(昭和42年に撤去))

型式:単純Kトラス,橋長:182.940m,支間:3@60.000m,幅員:5.400m,橋格:大正15年示1等橋(T-12),鋼重:488.6t(出典:北海道鋼道路橋写真集(第1巻))

草野組の時代

函館本線新夕張川鉄道橋(注)(昭和12年(1937年)竣工)

新夕張川鉄道橋は江別大橋の上流に架設された橋長約600mの鉄道橋で北海道で初めてニューマチックケーソン工法を採用した橋梁である。
この鉄道橋の場合は、とても地質が悪く、基礎工事のやり直しを繰り返し、最後は東京から「白石基礎」という基礎工事専門会社の応援を求めて、何とか完成にこぎ着けたという難工事だった。そして、工事を請け負った森谷組は大損害を受けた上、この工事の最中に森合組の社長が亡くなられるという不幸にも見舞われ倒産してしまったため、草野が草野組を創業し、工事を引き継いで完成させたといういわくつきの工事だった。
(注)※参考資料:「さっぽろ文庫8 札幌の橋」札幌市教育委員会編

橋写真3
橋写真

施工状況

(旧)一条大橋(昭和14年(1939年)竣工)

初代の一条大橋は、大正9年の薄野遊郭の上白石への移転を契機に市内有数の歓楽街化したススキノ地区と豊平川対岸を繋ぐために、大正13年に初代幌平橋と同様に地元民の寄付によって架けられた木造桁橋で「南一条橋」と呼ばれていた。
その後、大正13年に札幌市に寄付され、市が維持管理したが、太平洋戦争が始まる前の時代になると、小樽・札幌・旭川を結ぶ重要な幹線道路として、一般の交通だけでなく軍事上でも重要な使命を持つ橋であるということで永久橋とする必要が生じた。
昭和14年に竣工した(旧)一条大橋は、そのような時代背景の中で生まれた橋で、橋長178m、幅員9.0mのゲルバー桁の鉄筋コンクリート橋だった。
この先代一条大橋の工事予算は、『当時、誰がみつもっても五万円ほど損をする勘定だった。したがって著名大手業者はみなきらった。』と『風雪85年 岩田徳治』(奥田次郎 著)にある難工事だったが、岩田建設(現岩田地崎建設(株))の創業者で当時社長だった岩田徳治氏は、請け負う英断をし、この工事を見事に完成させたことによって後年「橋の岩田」という名声を得る礎を築いた。
しかし、この成功を裏で支えたのは草野眞治であった。同書によると『岩田徳治は引受けて考えた。(損をしないやり方だってあるのではないか) 長考の末、フト頭に浮かんだのが江別の草野眞治という人物の顔だった』とある。この後、岩田氏は、既に「橋造りの名人」という定評のあった草野を呼んで、「あまり損をしないでやれんか」と相談し、草野から「市役所が仮設と工法をまかせてくれるならやれぬこともないです」という返答をもらう。そして、市と掛け合って、出来上がりが設計通りなら良いという許可を得た上で草野に工事を委ねたという経緯であった。
そして、草野は、以前に国鉄の新夕張川鉄道橋架橋工事で試みたウエル方式での施工を敢行することにより、安く早く工事を完了させ、赤字覚悟で始まった工事は結果としていくらかの利潤が出たということである。このウエル方式による橋梁工事は、奥田次郎氏の言葉を借りれば「橋梁工事の革命」だった。注)
しかし、その後の交通量の増加に伴う交通荷重の増大と幅員の狭小化のため、4車線化されることになり、上流側の現在の新橋が完成した昭和43年に取り壊された。
※参考資料:
「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年
「風雪85年 岩田徳治」 奥田次郎 著 昭和53年

旧一条大橋(下部概成)

旧一条大橋(下部施工中)

(旧)東橋(昭和26年(1951年)竣工)

初代の東橋は、明治23年(1890年)に架けられた橋長39.8mの木造トラストと77.7mの木桁をつないだ118.2mの橋で、橋の中央には砂利が敷かれていた。
橋の名前の由来は、札幌の東に位置することと大正天皇が東宮になられた年に架けられたことから命名されたと伝えられている。
初代東橋は、明治31年の洪水によって流失し、その後も架け替えと流失を繰り返し、昭和26年に戦後初めて架けられた橋である先代の東橋が架けられた。
この橋はゲルバー形式の鉄筋コンクリート橋(橋長131.7m、幅員13.0m)で、この橋の完成によって、4t以上の車馬は従前の木橋を渡れず、一条大橋まで迂回していた不便が解消された。この工事は、冬期も昼夜兼行で行われ、コンクリートの打設は当時まだ実験段階だった電熱養生法を最初に採用し、当時の業界誌でも大きく取り上げられ、注目されたとのことである。
その後、交通量の増大に対応して、昭和44年(1969年)には、下流側に新橋を架け旧橋を上り線のみの一方通行化、新橋を下り線として4車線化した。さらに、平成25年度(2013年度)には、現在の上流側の新橋に架け替えられた。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年

草野作工(株)の時代

(旧)幌平橋(昭和29年(1954年)竣工)

昭和22年に架けられた木造ハウストラスト橋が、昭和24年の洪水で橋脚二基が傾いたため架け替えられたのが、橋長150.7m、幅員7.5mのゲルバー鋼鈑桁橋の先代の幌平橋で、昭和29年に完成した。この橋は、日米行政協定による安全保障諸費を財源として建設されたが、当初、費用の関係から歩道を設置することができず、将来歩道が添架できるような構造として、昭和41年及び昭和45年に逐次、片側ずつ幅員1.5m歩道が添架された。
しかし、この先代幌平橋は、2車線橋だったため、札幌市内のその後の飛躍的な交通量の増加に対応できず、慢性的な交通渋滞を引き起こしたことから、現在の4車線橋に架け替えることとなり、平成4年の仮橋の設置後に解体・撤去された。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年

(初代)江神橋(こうじんばし;苫前町;昭和32年(1957年)竣工)

江神橋が立地する苫前町江丹別は明治中期に開墾が始まったが、近隣の中心都市だった旭川に行くにも不便な場所だったため、1900年に私設の渡し船ができ、1902年には官設となり、江丹別地区と旭川中心部を結ぶ重要な交通手段として利用されてきた。
戦後、ようやく橋の必要性が認められ、昭和28年(1953年)に工事が開始され、昭和32年(1957年)に完成、通行を開始した。
この初代江神橋は、橋長179.0m、幅員3.5~7.0mのコンクリート及び木橋で、1966年に架け替えられ、その後1986年にも架け替えられ、現在の橋は3代目である。

橋写真3

江神橋(下部施工中)

(旧)江別橋(昭和29年(1954年)竣工)

江別橋(竣工時:昭和29年1月)

江別橋(竣工時:昭和29年1月)

妹背牛橋(もせうしばし:昭和34年(1959年)竣工)

橋長598.7m、幅員5.5mのゲルバーワーレントラス橋

橋写真4

妹背牛橋(下部施工中;昭和29年)

橋写真4

妹背牛橋(下部施工中;昭和29年)

その他の橋梁(昭和30年代前半)
橋写真

千歳川橋

橋写真4

中川橋

橋写真

千歳橋

橋写真4

千歳橋(竣工時)

豊平橋(昭和41年(1966年)竣工)

交通量の増大に対応して昭和33年から始まった国道36号の幅員拡幅により豊平地区は全幅27mに拡幅されたが、先代の豊平橋の幅員は18mで交通のボトルネックとなり、橋上での渋滞が大きな問題となってきたことから、橋の架け替えが決定された。
昭和39年に仮橋工事に着手、昭和40年に旧橋の解体、そして、昭和41年に現在の豊平橋が、橋長132.2m、幅員27.0mの三径間連続鋼箱桁橋として完成し、現在に至っている。
※参考資料:「豊平川の橋物語」 三浦宏 編著 平成15年

東京オリンピックの聖火ランナー(昭和39年)

旧橋の撤去作業(昭和39年)